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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を興味で掲載したものです。

  邪馬薹國=倭(やまと)国 年表(豊国史)


   素戔鳥尊より前の時代(倭奴国の成立以前= 出雲王朝の記録か 

  前14年

饒速日(天照大神)葦原瑞穂國の 笠置山 に降臨。饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都を建設。( 天神降臨 

天物部八十氏が筑豊の山や海を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。

 天満倭国 倭奴国が成立。


  後57年

倭奴国王、漢光武帝に遣使。 金印  を受く。

(『先代旧事本紀』から 天香語山命  が倭奴国王かと推定。)


  後70年

磐余彦尊(神武天皇)誕生。

 *.神武東征前史:神武天皇の生誕地(山都町の 斗塩 )および東征の出発地(山鹿市の 日向/吾平 


  後83年

 お佐賀の大室屋 (吉野ケ里遺跡)陥落鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。(日向 ⇒ 筑紫)


  107年

倭面上国王帥升、後漢の安帝に生口(食肉用奴隷)一六〇人を献ず。 (この倭面上国王は、天孫本紀に
云う 天忍人命 か。) この頃から倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が途絶える。

 *.『生口』という名の島『 生口島 (いくちじま)』が瀬戸内海にある。


  114年

冬十月、磐余彦尊(神武天皇)、諸皇子と第一次東征開始。十一月、  岡水門 に至り軍備を整える。
 *.神武東征:筑紫(西)⇒ 豊国(東)を征服


  115年

春三月、古遠賀湾を逆上り、長髄彦と交戦するが敗れる。兄の五瀬命が矢にあたり負傷。

博多湾の 草香津 へ帰還。五月、五瀬命、死去。 竈山 に葬る。


  115~

   117年  3年間、竈門山(宝満山)の高千穂の宮で再軍備。(乙卯~丁巳の3年間、翌年が戊午)

  118年

春二月、第二次東征開始。「日を背にして戦う神策」を実行に移す。( 西に向かって討つ 
 速吸之門  に至り、 珍彦(椎根津彦) の案内とする。 菟狹(安心院妻垣神社) に至り、一柱騰宮に入る。

数ヶ月、 狹野嶽(求菩堤山) に通い、大天狗(豊前坊)及び八咫烏(求菩堤山八天狗)族と同盟を結ぶ。
この間、 吉野の国樔 (玖珠)部らを巡撫。

六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」

七月、頭八咫烏の案内で 英彦山 を下る。

八月、菟田縣の血戦に勝つ。

九月、 天香山(香春岳) 攻略にかかる。

十月、赤銅八十梟帥を国見丘に破る。

十一月、彦山川水系を南下し嘉麻川水系に入る。
       東征コース は、鞍手郡誌・射手引神社社伝のページを参照下さい。)

    「十有一月の癸亥の朔己巳に、皇師大きに拳りて、磯城彦を攻めむとす。」= 立岩丘陵 の激戦。
     片島 に上陸。熊野の神邑を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。天磐盾(  立岩神社 )に登り、天孫に祈願する。

十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む(戦いの場所は、 鳥見(頓野) :鳥美野の戦い)。
    苦戦を強いられたが辛勝し、長髄彦を殺す。「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髄彦を撃つ。」
    金印を受けた倭奴国の滅亡

   *.長髄彦(饒速日の義弟に当たる)は、年代が合わず、『 饒速日の系譜 』で天忍人命?、天忍男命?かと推定。
     饒速日の別の末裔、瀛津世襲命神武に帰順したようだ。


    119年

春二月、「諸將に命じて士卒を練ぶ。」倭奴国の残存勢力の掃討。

   *. 宮若市 の「犬鳴(犬鳴山、犬鳴川、犬鳴峠)」の地名は、倭奴国の王族が殺された土地。

三月、香春岳 一ノ岳の東南、 橿原の地 に邸宅の建造を命じる。一旦、陸路で筑紫の 宝満山 玉依姫命の零位を
祭る)へ 凱旋する。


    120年

大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃に迎える。天神(饒速日)の血統を入れる。


    121年

辛酉年の春正月、神武天皇、橿原宮で即位する。(やまと)王朝(邪馬臺國の成立。


  136年

春三月、神武天皇、崩御。享年67歳。( 神武天皇の没年 についての記述。)

夏四月、手研耳命、即位。(やまと)国(旧倭奴国)を巡行する。「 豊秋津島倭 (とよあきつしまやまと)」と
いう号を始めた。


  137年

 畝尾山東北陵 に埋葬された。(畝尾山=香春岳 一ノ岳の東北の位置にあたる陵)


    139年

太歳己卯、神渟名川耳尊 手研耳命 を殺害し王位を奪う。


  140年

太歳庚辰、神渟名川耳尊(綏靖天皇)即位。葛城に都す。  *.葛城=かつき 


  143年

夏四月、神八井耳命、薨ず。畝尾山の北に葬る。


   ※ 倭国大乱 ⇒「豊国 対 火国」

   「魏志倭人伝:其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。」の記述は
   神武即位(121年)~崇神崩御(198年)の77年間にあたり、 倭国大乱 桓帝霊帝の治世の間( 146年 - 189年)、
   後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)等)の記述も中国史書にある。

  198年

戊寅十二月、崇神天皇、崩御。(古事記より)


  200年

(196~220 建安年間) 卑弥呼  共立か。(魏志 韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)


  230年

「将軍衛温諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定倭国)および亶州(推定  東鯷国 を求む」、

三国志呉書「孫権伝」黄竜二年


  238年

景初二年六月、邪馬薹國の女王(にして神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡に大夫難升米等を遣はす。(魏志)


    240年

魏使邪馬薹(やまと)國に至る正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国。


    243年

正始4年、卑弥呼は魏に使者として大夫伊聲耆掖邪狗ら8人を送り、生口と布を献上。掖邪狗らを率善中郎将とした。


    245年

正始6年、皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。


    247年

正始8年、倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わす。太守は塞曹掾史張政等を

遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。


    248年

正始9年、卑弥呼以て死す。(狗奴国との戦いに敗れて自決させられた。)

*.墓の記述は、「  大作冢、徑百餘歩 」とある。


  249~

   255年

 

更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。


    266年

泰始2年、卑弥呼の宗女 薹與  年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・
青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。


      (中略)


  369年

邪馬台国、神功天皇(皇后)に滅ぼされる。「水沼の皇都」が築かれ遷都。これを「新・邪馬台国」と名づけた。
(「 神功征西と倭国易姓革命 」を参照下さい。)


  390年

神功天皇の没年と推測。=『 吉山旧記 』の「仁徳天皇七十八年(三九〇)三月十一日薨去」の記事。


  391年

(辛卯)、応神天皇(『宋書』に云う倭讃)が高句麗を攻撃(広開土王碑)。
(「 東西五月行の成立 」の20ページより)


  406年

宇治天皇即位? (「 宇治の京 」の27ページより)


  408年

宇治天皇三年が、三九〇年の後の『 万葉集七番歌 』の左注にある「戊申年」のあたる。


  409年

大鷦鷯天皇元年? (「 雀取らさね 」の13ページより)


  410年

大鷦鷯天皇二年? 速総別王(隼別皇子)の乱(「 雀取らさね 」の13ページより)


  413

   502年

 紀氏王権の成立(倭五王:讃、珍、濟、興、武) 」に続く
(倭五王時代の年表:シナの史料の記述)


  5世紀
   後半

倭武の常陸巡幸の頃、「 東西五月行 」の成立


  486年

顕宗天皇二年 倭王武(倭が武大王、倭武天皇)の御代に 久留米市朝妻 の宮殿で曲水の宴が開かれる。 


  527年

磐井の乱(「 東西五月行の成立 」の22ページより)
「武」の次の「哲」が筑紫君磐井に当たるようである。豊国の 継体天皇 と争って敗れ、王権は豊国に戻る。


      (中略)


  656年

斉明天皇二年  後岡本宮 へ遷都。「 狂心の渠 (たぶれこころのみぞ)」を造る。 吉野宮 を作る。


  672年

天武天皇元年 壬申の乱 (邪馬台国東遷前の最後の 豊国北伐 


  679年

天武天皇7年 筑紫大地震が発生。以後、7世紀末から豊国から大和へ 東遷 が始まる。
 *.北部九州の廃寺時期と重なる


  ※ 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料 「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」です。