※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を興味で掲載したものです。
邪馬薹國=倭(やまと)国 年表(豊国史)
※ 素戔鳥尊より前の時代(倭奴国の成立以前= 出雲王朝の記録か )
春二月、第二次東征開始。「日を背にして戦う神策」を実行に移す。( 西に向かって討つ )
速吸之門 に至り、 珍彦(椎根津彦) の案内とする。 菟狹(安心院妻垣神社) に至り、一柱騰宮に入る。
六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
七月、頭八咫烏の案内で 英彦山 を下る。
八月、菟田縣の血戦に勝つ。
九月、 天香山(香春岳) 攻略にかかる。
十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。
十一月、彦山川水系を南下し嘉麻川水系に入る。
( 東征コース は、鞍手郡誌・射手引神社社伝のページを参照下さい。)
「十有一月の癸亥の朔己巳に、皇師大きに拳りて、磯城彦を攻めむとす。」= 立岩丘陵 の激戦。
片島 に上陸。熊野の神邑を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。天磐盾( 立岩神社 )に登り、天孫に祈願する。
十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む(戦いの場所は、 鳥見(頓野) :鳥美野の戦い)。
苦戦を強いられたが辛勝し、長髄彦を殺す。「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髄彦を撃つ。」
金印を受けた倭奴国の滅亡。
*.長髄彦(饒速日の義弟に当たる)は、年代が合わず、『 饒速日の系譜 』で天忍人命?、天忍男命?かと推定。
饒速日の別の末裔、瀛津世襲命は神武に帰順したようだ。
※ 倭国大乱 ⇒「豊国 対 火国」
「魏志倭人伝:其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。」の記述は
神武即位(121年)~崇神崩御(198年)の77年間にあたり、 倭国大乱 (桓帝・霊帝の治世の間( 146年 -
189年)、
後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)等)の記述も中国史書にある。
198年
戊寅十二月、崇神天皇、崩御。(古事記より)
正始8年、倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わす。太守は塞曹掾史張政等を
遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
249~
255年
更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。
(中略)
(中略)
※ 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料 「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」です。