※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を管理人の興味で示したものです。
[倭奴国の成立以前= 出雲王朝の記録か (素戔鳥尊より前の時代)]
■論衡
倭人は、周(紀元前一〇四六頃~紀元前二五六年)の初めから
鬯草を献上していた。
『漢書』地理志
倭人の国は柔順な人達の国で、孔子が弟子の子路仲由に海に浮かんで
筏に乗って東の方へ行こうか。その時、お伴するのはお前くらいだろ
うなと言った。
孔子が本国は春秋戦国時代で礼儀が失われてしましたので、東方の
理想的な国へ行こうかと言った。柔順な東夷だから倭人という。
(これが、倭人の名前の由来。したがって、「倭」は良い意味。)
倭人の国百余国と 東鯷人の国 に二十余国が日本列島上にあった
と記す。
■出雲王朝の最大限の領土は、「 出雲王朝の版図は? 」が示すように銅鐸文化圏の国(素戔鳥尊の国)へ銅矛文化圏の国(侵略者、
天神饒速日尊たち祭祀道具)がクサビを打つように入ってきた。
吉野ヶ里遺跡 から銅鐸が出土されたように、中心は、豐国にあった銅鐸文化圏の国が分断された。
* 宋史 日本國(王年代紀) によれば、神代の豐国の宮は筑紫の東にあり、素戔鳥尊は、天照大神尊より先の王であった。
素戔鳥尊の国へ饒速日尊(天照大神)が、侵略してきた。宗像三女神が降臨した 六ヶ岳 が、最初の侵略の地。
素戔鳥尊 VS 饒速日尊(天照大神)の記録が、『日本書紀』の「 天安河の誓約 」の記述であろう。