※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
・「邪馬台」倭国=豊国説 平成27年3月14日(土) 福永 晋三
韓半島~福岡県(里程について)
詳細表示の地名
●ソウル
●釜山
巨済島
●平壌
●沙里院
総里程:12,000里
海岸線に沿って水行:7,000里
楽浪郡~帯方郡の距離は?
1,000里
1,000里
1,000里
※ 周里 :1里(67.5m)→ 1,000里(67.5km)
「倭人、倭国」の位置、距離の関する記述
※ 『 出雲王朝の記録か 』 の『論衡』に「倭人」の記述、『漢書 地理誌』に「樂浪海中有倭人」の記述がある。
※ 『 出雲王朝の版図は? 』 に示すように、「銅鐸文化圏」が出雲王朝(素戔鳥尊)。「銅矛文化圏」が朝鮮より降臨してきた
饒速日(天照大神)の王朝であるが、
吉野ヶ里遺跡 に出土した銅鐸が示すように銅鐸文化圏に銅矛文化圏が侵略してきた。
前14年 饒速日(天照大神)が、豐葦原瑞穂國の 笠置山 に降臨。
※ 『 天満倭国=倭奴国成立 』 については、後57年に倭奴国王( 天香語山命 か)が漢光武帝に遣使して「金印」を受けた。
※ 『 倭奴国と樂浪郡の里程 』については、翰苑(かんえん)に書かれている後漢書(謝承後漢書)に曰く、
樂浪郡治 ~倭奴国の
都( 天香山 付近)までの距離が、12,000里である。
※ 『 後漢書(謝承後漢書)=翰苑(かんえん) 』によれば、107年の時点では、まだ「倭奴国」で、「倭国」は成立していない。
「倭面上国王師升」と記述されている。
※ 『 原の辻貿易=楽浪式土器伝播図(倭国) 』に示されているように「楽浪郡」から素戔鳥尊の「天香山」を中心とした場所まで。
更にその後、出雲に追放された銅鐸を祀る素戔鳥尊の子孫も交流している。
※ 『 歩と里の概念:倭人は周里を用いた 』時代に樂浪郡治から倭奴国の都までの距離を12,000里と「周里」で倭人が測った
距離である。
※ 『 神武東征と魏志倭人伝 』の記述に示すように118年に「倭奴国滅亡」した。
※ 『 卑弥呼即位から遣魏使 』 については、200年?が「 卑弥呼 」の即位。238年に魏の 帯方郡 へ遣いをおくり、240年に
魏使が邪馬台国へ来る。
※ 『 帯方郡から倭・女王國に 』
の記述の通り、魏使は帯方郡から来る。翰苑(かんえん)に書かれている「謝承後漢書」では、
樂浪郡から倭国の都までの距離、12,000里が、「魏略」では、帯方郡から女王國に至る距離、12,000里と記述が変わる。
■帯方郡から海岸線に沿って水行、韓國を経て狗耶韓國へ至る:7,000里。
■狗耶韓國から海を渡り、対馬国(對馬國)へ至る:1,000里。海を南へ渡り壱岐国(一支國)。海を1,000里渡り 末盧國 。
東南へ500里で 伊都國 へ至る。
■ 女王卑弥呼の都 は、田川郡。香春から遠くない位置。
*.南宋の『魏志倭人伝 紹興本 』は、「對馬國」、「一大國」と記述されているが、「一大國」は誤植である。
また、福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料「 26邪馬壹國こそなかった 」
の 5~6ページに下記の記述があります。
③の『魏略』に、「對馬國」「一支國」の表記があり、南宋
紹煕本 『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」中の「對海國」、
「一大國」等、紹煕本がいかに誤植の多い版本であるかが知られるのである。