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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

  新北(にぎた)=熟田津(にきたつ)、和珥津(わにのつ)


  始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。・・・又、南一海を渡る千余里名づけて澣と曰ふ。一支国に至る。・・・
  又、一海を渡る千余里末盧国 田熊石畑遺跡 )に至る。・・・東南陸行五百里、伊都(い つ)国新北)に到る。・・・
  東南して奴(の )国 亀山神社 )~( 鹿毛馬神籠石 )に至るまで百里。

   女王卑弥呼の都 は、田川郡。香春から遠くない位置。

 一支國から松廬國へ(海を千余里渡る)

*.壱岐から南へ千余里は行けない。(陸地まで五百里も無い。)

 ※  周里 :1里(67.5m)→ 1,000里(67.5km)

 伊都國へ(東南陸行五百里)

*.伊都國の津=倭珥津=熟田津


 ※ 宗像市の田熊石畑遺跡(宗像高女跡)を末盧國、新北を伊都(イツ)国の津と比定している。

   『万葉集 八番歌』の熟田津と『日本書紀 神功紀』の和珥津は同じ場所であり、伊都国の津である。

 ・新北(にぎた)の地名に関する歌 :万葉集 八番歌

  *.伊都国の津:熟田津

 『日本書紀 神功紀(仲哀天皇九年)』の記述より

  *.伊都国の津:和珥津


 ※ 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容を修正されています。
   肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。
   田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
   仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説は
   すべて間違いとの結果が出ました。
   勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。

 ※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページ?倭(しわ)の興亡
  「 神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。

   ・  気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、播磨の国を南下、瀬戸内の海に出る。

   ・吉備の  鬼の城 温羅(う ら)を滅ぼし、西進する。

   ・  牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に  穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。

   ・邪馬壱国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに )が帰順。

   ・続いて伊都(い つ)県主の祖五十迹手(いそて)が帰順。

   ・  橿日宮 に進軍。仲哀戦死。神功即位。穴門豊浦宮に帰還。

   ・淡海の  大津の宮  (豊津町)を滅ぼし、  御所ヶ谷神籠石 (旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。

   ・遠賀の地で物部氏を招集し、 ニギタ津(鞍手町新北)を出航。

   ・橿日宮を経て、  松浦県 熊襲(勝門比賣)を滅ぼす。渡海して倭地を確保。筑紫( 蚊田の里 )に帰って応神を出産。
    穴門豊浦宮に帰還。

   ・相当の期間を経て、  美奈宜神社  平塚川添遺跡 などに拠った羽白熊鷲を殲滅。

   ・  若桜宮 (宝満山、竈山神社)に入る。数年後、筑後川を渡って  三潴 を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。

   ・  女山(ぞやま)神籠神石 に拠る田油津(たぶらつ)を討伐。
     * 田油津(たぶらつ)の兄夏羽が焼き殺された場所が田川市の  夏吉 

   ・豊、筑、火の三国(三韓)を征伐する。邪馬薹国滅亡。三六九年 水沼の皇都 を建設。筑後遷都が行われた。

  翰苑(かんえん)に書かれている伊都国の長官は、「 爾支(ニキ) 」のいた処(伊都国の都=熟田津→新北)の記述です。

  福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料 「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」の4ページに「伊都(イツ)」の
   記述があります。

  福永晋三先生のタイトル『魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考』の資料 「 魏志倭人伝と記紀の史実 」の
   8~10ページに「伊都(イツ)」の記述があります。

   万葉仮名伊都」は、「イト」とは読まない。 「 イツ 」と読む。『古事記』では、「伊都二字はを以(もち)いよ」など
   との割注がついている。すなわち、わざわざ「イツ」と読めとある。

   また、『日本書紀 垂仁天皇二年』でも「」は、「 」と読んでいる。「都怒我阿羅斯等ぬがあらしと)伊都都比古
  いつつひこ)
」とある。 

   香春町には、都怒我阿羅斯等を祀る 現人神社 がある。

 ※ 宮若市  千石挟 (千石挟から鞍手町にかけてが、「伊予村」)のページへ

 ※ 『日本書紀 斉明紀 七年』の三月の「磐瀬行宮に居ます。」、八月の「還りて磐瀬宮に至る」は、中間市の 岩瀬 のページへ

 *.当時は海に面した土地であろう地図(Flood Mapsの海面上昇:7m)と古遠賀湾(古代の遠賀川流域の推定図)は、  こちら 

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