※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
・「神武は筑豊に東征した!」福永晋三
大善寺玉垂宮=水沼の君/玉垂命の都:水沼(水奴麻)の都
※ 「大善寺玉垂宮」に関する久留米市の文化財資料は、 こちら をご参照下さい。
『宋史』に云う「第十五代神功天皇」が、邪馬臺国の王族と思われる「豊国の忍熊王」や「羽白熊鷲」や「火の君桜桃沈輪」等を
征伐し、邪馬臺国を滅ぼした。三六九年、新たに「水沼の皇都」を建設し、邪馬台国を創始(初代の水沼の君/玉垂命)。
倭五王 の王朝(筑紫王朝:水沼の君/玉垂命)の時代へとつながる。(資料『東西五月行の成立』より)
*.「火の君桜桃沈輪」征伐、「水沼の皇都」建設について『 吉山旧記 』「第六代 葦連」「第八代 清麿」の記述です。
※ 地名:水沼(みぬま)は、三潴郡(みずまぐん)
古代からの郡名「三潴郡」、「和名抄」は「美無万(みむま)」と訓じている。「日本書紀」には「水沼君」・「水間君」。
郡名は、筑後川下流域の後背湿地で沼沢が多かったこと因む説、「真沼(みぬま)」が転訛した説、
「川と川の間の土地」の意・「ミヌマ(水間)」からとする説などがある。
※ 『神功皇后の戦略(永井功著)』より主として筑豊関係の伝説から想定される「 神功皇后御行動図 」です。
※ 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容を修正されています。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。
田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説は
すべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページの鯷倭(しわ)の興亡に
「 神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。
・ 気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、播磨の国を南下、瀬戸内の海に出る。
・吉備の 鬼の城 の温羅(う ら)を滅ぼし、西進する。
・ 牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に 穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。
・邪馬壱国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに )が帰順。
・続いて伊都(い つ)県主の祖五十迹手(いそて)が帰順。
・ 橿日宮 に進軍。仲哀戦死。神功即位。穴門豊浦宮に帰還。
・淡海の 大津の宮 (豊津町)を滅ぼし、 御所ヶ谷神籠石 (旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。
・遠賀の地で物部氏を招集し、 ニギタ津 (鞍手町新北)を出航。
・橿日宮を経て、 松浦県 の熊襲(勝門比賣)を滅ぼす。渡海して倭地を確保。筑紫( 蚊田の里 )に帰って応神を出産。
穴門豊浦宮に帰還。
・相当の期間を経て、 美奈宜神社 や 平塚川添遺跡 などに拠った羽白熊鷲を殲滅。
・ 若桜宮 (宝満山、竈山神社)に入る。数年後、筑後川を渡って三潴を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。
・ 女山(ぞやま)神籠神石 に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。
* 田油津(たぶらつ)姫の兄夏羽が焼き殺された場所が田川市の 夏吉 。
・豊、筑、火の三国(三韓)を征伐する。邪馬薹国滅亡。三六九年、水沼の皇都を建設。筑後遷都が行われた。
* また、資料『東西五月行の成立』の20ページには、歌中の「水奴麻」の一語を筑後国三潴(みずま)郡とし、
「水沼の皇都」に比定した。とあります。
※「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に
「東西五月行」の記述があります。
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