※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
・「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三
宇美八幡宮、蚊田の里(神武東征の地)
社伝「伝子孫書」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に 応神天皇を産んだ地で、「宇美」の地名も「産み」に 由来する
ものである。
鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)・射手引神社社伝による神武天皇・東征の地( 東征コース j:蚊田の里)。
以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より
蚊田の里(粕屋郡宇美町) 荒木の女志津姫皇子蚊田皇子を生み奉った地
今日まで埋もれていた貴重な伝承である。ここは、神功皇后が三韓征伐から帰還した後、応神を出産された所としてあまりにも
著名である。このことから、「宇美(産み)」の名がついたことが知られている。筑豊の各地を歩いているとき、神功と神武の
事跡が重なることは早くから知悉していた。しかしながら、宇美の地に、神武の息子が生まれていた故事は「鞍手郡誌」を見出す
まで気づかなかった。不明の至りである。
この伝承が、神武の史実を伝えるなら、神功皇后の応神出産の故事にもう一つの意味が加わる。神功は神武の故事を知っていて、
蚊田の里で皇子を生もうとしたことになる。神功の時代(四世紀後半)、神武はすでに倭国(邪馬台国)の初代大王として
崇められていたはずだ。神功が神武の王子の出産地で、我が皇子を出産することは、倭国大王の王位継承を人民に知らし
めるためではなかったかと推測される。
数々の拙論で述べたとおり、神功は東鯷国から出て倭国(邪馬台国)を武力併合した女帝としてきた。その革命王朝が倭国の
新しい支配者であることを示す、重要なプロパガンダであったと思われる。蚊田皇子の伝承は現段階では他に見当たらない。
(後略)
※ 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容を修正されています。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。
田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説は
すべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページの鯷倭(しわ)の興亡に
「 神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。
・ 気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、播磨の国を南下、瀬戸内の海に出る。
・吉備の 鬼の城 の温羅(う ら)を滅ぼし、西進する。
・ 牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に 穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。
・邪馬壱国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに )が帰順。
・続いて伊都(い つ)県主の祖五十迹手(いそて)が帰順。
・ 橿日宮 に進軍。仲哀戦死。神功即位。穴門豊浦宮に帰還。
・淡海の 大津の宮 (豊津町)を滅ぼし、 御所ヶ谷神籠石 (旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。
・遠賀の地で物部氏を招集し、 ニギタ津 (鞍手町新北)を出航。
・橿日宮を経て、 松浦県 の熊襲(勝門比賣)を滅ぼす。渡海して倭地を確保。 筑紫(蚊田の里)に帰って応神を出産。
穴門豊浦宮に帰還。
・相当の期間を経て、 美奈宜神社 や 平塚川添遺跡 などに拠った羽白熊鷲を殲滅。
・ 若桜宮 (宝満山、竈山神社)に入る。数年後、筑後川を渡って 三潴 を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。
・ 女山(ぞやま)神籠神石 に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。
* 田油津(たぶらつ)姫の兄夏羽が焼き殺された場所が田川市の 夏吉 。
・豊、筑、火の三国(三韓)を征伐する。邪馬薹国滅亡。三六九年、 水沼の皇都 を建設。筑後遷都が行われた。
※ 『神功皇后の戦略(永井功著)』より主として筑豊関係の伝説から想定される「 神功皇后御行動図 」です。
※「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に
「東西五月行」の記述があります。
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