※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
御所ヶ谷神籠石(景行社)=景行天皇の宮(百磯城の大宮処)
※ 第12代 景行天皇:豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)=「御所ヶ谷神籠石」を設ける。(紀)
※ 福永晋三先生のタイトル『「天満倭」考-「やまと」の源流』の ページ15 」の「百磯城の大宮処見れば淋しも」の項に
「山城宮」、「景行社」の記述があります。
また、『倭国(現在の福岡県・佐賀県)には、御所ヶ谷・ 鹿毛馬 ・ 高良大社 ・ 女山 ・
おつぼ山 等、神籠石の遺跡が
集中している。』の記述もあります。 尚、こちらが 資料(平成16年如月) 」です。
※ 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容を修正されています。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。
田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説は
すべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページの鯷倭(しわ)の興亡に
「 神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。
・ 気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、播磨の国を南下、瀬戸内の海に出る。
・吉備の 鬼の城 の温羅(う ら)を滅ぼし、西進する。
・ 牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に 穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。
・邪馬壱国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに )が帰順。
・続いて伊都(い つ)県主の祖五十迹手(いそて)が帰順。
・ 橿日宮 に進軍。仲哀戦死。神功即位。穴門豊浦宮に帰還。
・淡海の 大津の宮 (豊津町)を滅ぼし、御所ヶ谷神籠石(旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。
・遠賀の地で物部氏を招集し、 ニギタ津 (鞍手町新北)を出航。
・橿日宮を経て、 松浦県 の熊襲(勝門比賣)を滅ぼす。渡海して倭地を確保。筑紫( 蚊田の里 )に帰って応神を出産。
穴門豊浦宮に帰還。
・相当の期間を経て、 美奈宜神社 や 平塚川添遺跡 などに拠った羽白熊鷲を殲滅。
・ 若桜宮 (宝満山、竈山神社)に入る。数年後、筑後川を渡って 三潴 を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。
・ 女山(ぞやま)神籠神石 に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。
* 田油津(たぶらつ)姫の兄夏羽が焼き殺された場所が田川市の 夏吉 。
・豊、筑、火の三国(三韓)を征伐する。邪馬薹国滅亡。三六九年、 水沼の皇都 を建設。筑後遷都が行われた。
※「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に
「東西五月行」の記述があります。
※『 万葉集
29番 』「近江の荒都に過りし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌」は、
『日本書紀』の神功皇后摂政元年二月三月の記事、神功皇后軍が忍熊王を滅ぼし入水自殺に追い込んだ戦記を念頭に
置き、忍熊王の拠った百磯城の大宮処の跡を実際に訪れ、その荒廃を嘆き、併せて忍熊王の悲劇的な最期を傷んだ。
そこは天満つ倭の東方、豊国の淡海に展開された事変であった。武力革命による王朝交替のもたらす悲劇を詠んだ、
優れた叙事詩である。
《反歌二首》
人麻呂は反歌で、一転して、忍熊王の入水自殺を悼む。
思賀の辛碕と比良とは現在不明。豊津の海側に下りたか。
神功紀にはこの事件が詳細に記されている。忍熊王の入水自殺の場所は、 齋多(せた) 。
<『 宇治の京 』3ページより引用>
<所在地のGoogleマップ>