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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を管理人の興味で示したものです。

[楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる]

『翰苑』謝承後漢書では、楽浪郡~倭奴国が、12,000里

『翰苑』魏略では、帯方郡~倭・女王國が、12,000里


 <謝承後漢書の樂浪郡~倭奴国>
                            12,000里
   樂浪郡------------------------------------------------倭奴國
 (ピョンヤン)                                             (香春岳辺り)
   楽浪郡 ←   → 帯方郡
       約2,000里

 <魏略の帯方郡~倭・女王国>
                             12,000里?
            帯方郡----------拘耶韓國---對馬國---一支國---末盧國--伊都國--倭・女王國
           (ソウル説)  7,000里      1,000里   1,000里  1,000里  500里   (香春町の近く)

          

  距離は、 周里 (1里=67.5m)を用いた。
   巨済島対馬対馬壱岐壱岐宗像市神湊 へは、各々約1,000里。巨済島から海岸線に沿って、約7,000里(水行)は、
   ソウル辺りまでとなる。帯方郡は、ソウル。

   魏志倭人伝の主要行程
   倭人(の国)は、帯方郡の東南、大海の中に在る。
   郡より倭に至るには、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(ふ)るに乍(たちま)ち南し、乍ち東しす。其の北岸狗邪韓国に
   至るには七千里なり。

   「東南」の方位が大前提であるなら、ここの「乍南乍東」は倭に至るにあたって、韓半島が横たわるから、水行において「東南に
   真っ直ぐに」行けないからこそ、きわめて必然的な行程であり、重要な中前提となる。
   また、「韓伝」に「方四千里」となるから、韓半島を半周水行すると八千里となるが、東端まで行かずにほぼ半周より一千里短い
   辺りで停泊したとすると「七千里」は「東夷伝」を一貫しての的確な距離となる。

  樂浪郡帯方郡の距離は、約2,000里ある。
   『魏志倭人伝』 で、言われている 1,300里不明の距離は、総距離 12,000里の出発地が帯方郡では無く、樂浪郡であれば
   不要である。松廬國~女王國までの距離の2,000里が、相殺される。

  下記の『隋書』俀國では、樂浪郡からでも帯方郡からでも一万二千里とあり、同じ場所となっている。
   (樂浪郡と帯方郡の区別がつけられていない。)
    樂浪郡境帶方郡並一萬二千里

       

<『翰苑』魏志>

<『隋書』俀國>


 『隋書』「俀国伝」の前半部の訓読     <『東西五月行の成立(五世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃)』より抜粋>
  『漢書』に記された「東鯷国」を追究して、今日まで類を見ない「倭国史」を描出した。この「倭国史」が決して荒唐無稽の
  ものでないことを知っていただくため、最後に、『隋書』「「俀国伝」の前半部の訓読を掲げる。本稿と照合していただきたい。
  筆者は、下記の赤字部を詳述したに過ぎない。

  俀国は百済・新羅の東南に在り。水陸三千里。大海の中に於て山島に依りて居す。
  魏の時、訳の中国に通ずるもの、三十余国。皆自ら王と称す。夷人、里数を知らず、但だ計るに、日を以てす。
  其(俀国)の国境、東西五月行、南北三月行、各々海に至る。其の地勢、東高く、西下り、邪靡堆(やまたい)に都す。
  則ち、魏志に謂わゆる邪馬臺なる者なり。
  古に云う。楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びに一万二千里。会稽の東に在り、儋耳と相近し、と。
  漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、又使を遣わして朝貢す。之を俀奴国と謂う。
  桓霊の間、其の国大いに乱れ、逓(たが)いに相攻伐して歴年主無し。 女子有り、卑弥呼と名づく。鬼道を以て衆を惑わす。
  是に於て、国人共立して王と為す。男弟有りて卑弥を佐(たす)け、国を理(おさ)む。
  其の王、侍婢千人有り、罕(まれ)に其の面を見る有る者、唯だ男子二人有り。王に飲食を給し、通じて言語を其の王に伝う。
  宮室・楼観・城柵有り。皆兵を持して守衛し、法を為すこと、甚だ厳なり。
  魏より斉・梁代に至り、中国と相通ず。
  開皇二十年(六○○)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤、阿輩難弥と号す。使を遣わして闕に詣(いた)る。
  上、所司をして其の風俗を訪(と)わしむ。使者言う。俀王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、
  出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば便(すなわち)理務を停(とど)め、云う「我が弟に委ねん」と。高祖曰く
  「此れ、太(はなは)だ義理無し」と。是に於て訓令して之を改めしむ。