※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
夏吉(なつよし)=夏焼(なつやき)
土地の名前が、夏羽焼(なつはやき)、夏焼(なつやき)と呼ばれていたが、。江戸時代になって小笠原忠眞が若八幡神社を
参詣された時、不吉な村名の「夏焼」を「夏吉(なつよし)」に改め現在に至っています。
・『日本書紀 神功紀(太歳辛巳年=摂政元年の前年、三月の夏羽)』の記述
夏羽は、館に逃げ帰り篭っていたところを追ってきた神功皇后の軍勢に焼き殺された。
焼き殺された場所が、下記の岩屋鍾乳洞。
※ 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容を修正されています。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。
田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説は
すべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページの鯷倭(しわ)の興亡に
「 神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。
・ 気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、播磨の国を南下、瀬戸内の海に出る。
・吉備の 鬼の城 の温羅(う ら)を滅ぼし、西進する。
・ 牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に 穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。
・邪馬壱国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに )が帰順。
・続いて伊都(い つ)県主の祖五十迹手(いそて)が帰順。
・ 橿日宮 に進軍。仲哀戦死。神功即位。穴門豊浦宮に帰還。
・淡海の 大津の宮 (豊津町)を滅ぼし、 御所ヶ谷神籠石 (旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。
・遠賀の地で物部氏を招集し、 ニギタ津 (鞍手町新北)を出航。
・橿日宮を経て、 松浦県 の熊襲(勝門比賣)を滅ぼす。渡海して倭地を確保。筑紫( 蚊田の里 )に帰って応神を出産。
穴門豊浦宮に帰還。
・相当の期間を経て、 美奈宜神社 や 平塚川添遺跡 などに拠った羽白熊鷲を殲滅。
・ 若桜宮 (宝満山、竈山神社)に入る。数年後、筑後川を渡って 三潴 を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。
・ 女山(ぞやま)神籠神石 に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。
* 田油津(たぶらつ)姫の兄夏羽が焼き殺された場所が田川市の 夏吉。
・豊、筑、火の三国(三韓)を征伐する。邪馬薹国滅亡。三六九年、 水沼の皇都 を建設。筑後遷都が行われた。
※「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に
「東西五月行」の記述があります。
※ 『神功皇后の戦略(永井功著)』より主として筑豊関係の伝説から想定される「 神功皇后御行動図 」です。
須佐神社(すさじんじゃ)/岩屋(ごうや)第一鍾乳洞
■『素戔鳥尊の本貫地2』は夏吉にある「 岩屋第一鍾乳洞 」が、「天の石屋戸」である。現在は、岩屋(ごうや)と読んでいるが!!
岩屋第一鍾乳洞は、須佐神社の左後ろにあり、須佐神社の祭神は「素戔鳥尊」。
■饒速日尊(天照大神)によって、素戔鳥尊が処刑されたのが、右下の『日本書紀』の「天の石屋戸」の記述である。
■ 素戔鳥尊の豊国北伐 倭国(豊国)北伐考(平成28年3月21日、於 久留米大学)講演より
素戔鳥尊の矢俣遠呂智退治は、安心院( 須賀の宮 )を出て南から北の 天香山 周辺の八幡神を討伐した出来事。
素戔鳥尊は、饒速日尊(天照大神)により岩屋の前で処刑された。
*.鞍手町中山の 八剣神社 は、日本武尊の草薙劔とも深く関わる。元の名は、天叢雲劒。
※ 福永晋三先生のタイトル『天香山事件』の資料「 天香具山争奪戦 」の中に「天の岩屋戸事変」、「素戔鳥尊異聞」の説明です。
天香山を基軸にして、「天の石屋戸」伝承を見直す時、「天神饒速日命=天照大御神」は、「天香山」に拠る「速須佐の男の命」の
王権を奪取したことになる。
つまり、天照と速須佐の男は兄弟ではなく、天香山の支配権を巡って、死闘を展開した敵同士であったと思われる。天神は勝利し、
スサノヲは敗れた。だからこそ、スサノヲは軍事裁判の結果、戦犯として追放もしくは処刑されるのである。
スサノヲは豊国を追われた。
素戔嗚尊異聞
『日本書紀』神代上 第七段(日本古典文学大系)から、天岩屋伝説(本文と一書群)における小異や注を引いてみよう。
天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。(一書第一)
日矛を作らせているから、この伝承は銅矛文化圏のものである。したがって、天香山は銅鐸文化圏にはなかった。
素戔嗚尊
日本書紀は一貫してこの表記である。同じ表記のスサノヲが、昭和九年発行の『鞍手郡誌』の各「村社」の祭神として鎮座する。
中でも、「剣神社」や「八剣神社」に多く見られる。古遠賀湾沿岸の神である。(上川敏美氏が早くに指摘。)
天照大神(本文)
日神 日神尊(一書群)
古事記の天照大御神と表記が違ったり、日神の用例が目立つ。
然して後に、、諸の神罪過を素戔嗚尊に帰して、科するに千座置戸を以てして、遂に促め徴す。髪を抜きて、其の罪を贖はし
むるに至る。亦曰く、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。已にして竟に逐降ひき。(本文)
《手足の爪は、切った後もその人の体の一部分であり、その爪を焼くとか刻むとかして危害を加えれば、爪の元の所有者を死に
至らせ、または病に陥らせると考えられていた。》
と頭注にある。
千座置戸を以てして、遂に促め徴す
については、「促(せ)め徴(はた)す」と訓読してあり、徴収する意であると説明されている。
私の方では、徴は懲罰の懲と同意であると考えている。処刑である。千座置戸とは、チンギス・ハーンの血を引くものが処刑される
とき、その地を流すことが憚られ、フエルトの下に置き、その上を何頭もの馬が往来し圧殺した記事が残されているが、それを連想
させるものがあろう。
すなわち、「岩屋戸」を千座(何枚)も素戔嗚尊の上に「置」いて、圧殺したのではなかろうか。
江上波男の騎馬民族渡来説を採用するなら、素戔嗚尊も饒速日尊も騎馬民族である可能性があり、敗者とは言え、貴種の流血を避けた
処刑法と考えるのは行き過ぎであろうか。
また、髪や爪を抜かれたものが解放もしくは追放となることが日本古典文学大系の補注にある。これはスサノヲ自身のことと考える
より、その一族に科せられた罪科と考えられないか。
そうであるなら、豊国を追われたスサノヲの一族が、出雲で活躍する訳も私には首肯できるのだが。
天の石屋戸事変の真相
「天の石屋戸」伝承には、天香山に拠る素戔嗚尊の「国譲り」と「天神降臨」という歴史の真相が隠されていたようだ。
しかも、もう一つの重要な真相があったようだ。それは、素戔嗚尊が天香山における「日神」そのものであり、銅鏡も素戔嗚尊の系譜
が代々祀っていたようである。日神素戔嗚尊の死に因り、高天原は一旦闇に閉ざされる。
侵略者の天神饒速日尊は、その没した日神の生まれ変わりとして、天の岩屋戸から黄泉帰るというショーを催し、日神の位を継承する
のである。こうして、室伏志畔氏のいうグラフト(接木)国家が誕生するわけである。
万葉集の定型句、「八隅知し わが大王 高照らす 日の御子」はこの歴史の真相を継承している。
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