[帯方郡はどこか(4つの説がある)⇒(c)京畿道ソウル説?]
以下、『邪馬臺国の位置と年表』より
韓半島半周水行
郡より倭に至るには、海岸に循したがひて水行し、韓国を歴へて、乍たちまち南し乍ち東す。其の北岸狗邪韓国に至るには七千余里
なり。
帯方郡から倭国に至るには、海岸に沿ってだんだんと水行し、韓国を経由して、南に行ったと思うと東に行く。倭の北岸狗邪韓国に
至るには七千余里である。
ここには明らかに「水行」とあり、後の「水行十日陸行一月」の総日程と呼応する。「循」字は解釈のとおり。「歴」字は、後の
「相攻伐すること歴年」に見られるように、すでに抽象的な意義になっており、「経る」と同様の意であり、必ずしも「陸行」を
意味しない。後述するが、山有り谷あり虎ありの実際の韓国内を階段式に、道無き道を魏使が自ら歩くのは困難を極める。
「乍」字も解釈のとおり、辞書の助辞解説にあり、南に水行し東に水行したと読み取れる。
また、「韓伝」に「方四千里」とあるから、韓半島を半周水行すると八千里となるが、東端まで行かず、ほぼ半周の辺りの海岸に
停泊したとすると、「七千余里」は「東夷伝」を一貫しての的確な距離となる。
※ 距離は、
周里 :1里(67.5m)→ 1,000里(67.5km)を用いたので、逆に狗邪韓国から七千里の距離の所は、現在のソウル
付近になる。
⇒ 帯方郡は(c)京畿道ソウル説?