※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
・「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三
※ 『 神功征西と倭国易姓革命 』と主として筑豊関係の伝説から想定される「神功皇后御行動図」『神功皇后の戦略(永井功著)』
※ 神功 天皇 の呼称については、宋史日本伝中の『 王年代紀 』に記述があります。
※ 「 東鯷国 の実像」については、福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の
18ページに以下の説明があります。
なお、「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に
「東西五月行」の記述があります。
東鯷人の国は、丹波を中心とする銅鐸圏の二十余国の国であり、秦時に徐福が渡来し、漢代に「鯷(しこ、実はサケ)」を
呉地にもたらし、三国時代に呉兵が亡命し「鯷呉合作鏡」たる三角縁神獣鏡を作った地である。
また、一時期魏にも朝貢したが国交は樹立できなかった。その後も「親魏倭王」の倭国に属することなく、晋代に至るまで
倭国と並存もしくは対立した独立国であった。
また、8ページの東鯷国の出現(前漢代の東鯷国)の項に「 籠神社 」の記述があり、更に、11ページには、 後漢代の東鯷国
丹波王国と呉の往来:浦嶼子伝承(浦島太郎のおとぎ話が有名)に関する「 籠神社 」の記述があります。近くに「 浦島神社 」も
あります。
次に、18ページの鯷倭(しわ)の興亡に「神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。
・ 気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、播磨の国を南下、瀬戸内の海に出る。
・吉備の 鬼の城 の温羅(う ら)を滅ぼし、西進する。
・ 牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に 穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。
・邪馬壱国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに )が帰順。
・続いて伊都(い つ)県主の祖五十迹手(いそて)が帰順。
・ 橿日宮 に進軍。仲哀戦死。神功即位。穴門豊浦宮に帰還。
・淡海の 大津の宮 (豊津町)を滅ぼし、 御所ヶ谷神籠石 (旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。
・遠賀の地で物部氏を招集し、 ニギタ津 (鞍手町新北)を出航。
・橿日宮を経て、 松浦県 の熊襲(勝門比賣)を滅ぼす。渡海して倭地を確保。筑紫( 蚊田の里 )に帰って応神を出産。
穴門豊浦宮に帰還。
・相当の期間を経て、 美奈宜神社 や 平塚川添遺跡 などに拠った羽白熊鷲を殲滅。
・ 若桜宮 (宝満山、竈山神社)に入る。数年後、筑後川を渡って 三潴 を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。
・ 女山(ぞやま)神籠神石 に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。
* 田油津(たぶらつ)姫の兄夏羽が焼き殺された場所が田川市の 夏吉 。
・豊、筑、火の三国(三韓)を征伐する。邪馬薹国滅亡。三六九年、 水沼の皇都 を建設。筑後遷都が行われた。
※ 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容を修正されています。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。
田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説は
すべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。