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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

  「都」を「ツ」と読まれる例


  福永晋三先生のタイトル『魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考』の資料 「 魏志倭人伝と記紀の史実 」の
   9~10ページより「」が「」と読まれる例の抜粋です。

  すでに定説と化した倭人伝の中心国の一、「 伊都 」は三世紀当時にどう読まれたか。もはや「呉音」で発音された
  ことは明らかである。断じて、六世紀末以後の「漢音」で読まれたわけはない。私はすでに随所でこのことを述べ  
  て来た。
  まず、「都」字から再確認する。左は、角川新字源の「都」字の見出しの部分である。呉音がで漢音がである。
  新字源の漢字音の歴史にあったように、漢音を正規の字音と定める命令が延暦十二年(七九三)に発せられ、今日
  では、一つ一つの漢字についていえば、漢音でよまれる字が多くなっているが、現代日本語にも「都合(つごう)
  「都度(つど)」などの語に、呉音が残されている。
  したがって、倭人伝の「伊都」は「イツ」であって、この段階で、新井白石以来、「伊都」を「イト」と読んで
  筑前国怡土郡に当ててきた古代史学は全て成立しないおそれがある。
  たとえ、わが国で漢音が正規の字音になったからといって、「伊都」が「イト」と変わって遺称地となった可能性は
  極めて少ない。

  例えば、古事記に現れる「都奴賀」は「ツヌガ」と読み、今日の「敦賀(つるが)」の地であることはよく知られ
  ている。山梨県の都留市も正倉院文書に残された「都留郡」の中心地であり、「鶴郡」とも書かれるから、今も昔も
  「ツル」と読む。
  他にも、古代から現代に伝わる地名に、都宇郡(岡山県)、都家郷(埼玉県)、都志郷(兵庫県)、都筑郡(神奈
  川県)、都梨郷(岡山県)、都濃郡(山口県)、都麻郷(島根県)などがあり、すべて「都」字が「ツ」と読まれ
  ている。


  このように、記紀や万葉などの呉音で書かれた地名の多くは、すべて呉音のまま伝わっていると言っても過言ではない。
  一方、大阪府八尾市の「阿都(アト)」の例も確かにある。日本書紀に「阿斗」と出てくる地で、用明紀に「阿都」が出てくる。
  ただ、日本書紀に出現する万葉仮名は、古事記の万葉仮名が全て呉音であるのに対し、漢音が一部に混在する。この漢音万葉仮名が
  いつ、どの巻に混入したかについては今後詳細な研究が必要であろう。
  日本書紀の最終編纂が、どうやら延暦十二年(七九三)以後であることは大体見えてきたようである。ただ、漢音が「日本が隋・
  唐の政府と交通し、外交使節や留学生を派遣した結果、当時の首都長安および洛陽において直接に学んだ中国語の発音」であると
  するとき、「都」(ト)は実に微妙な音である。
  なぜなら、『隋書』俀国伝において、「都斯麻」の表記があり、「 対馬 (つしま)」を表していることが明らかだからである。
  少なくとも、大業四年(六〇八)には隋の首都においても、「都」字は「ツ」音であった。

<『隋書』俀國>

 *.大業四年の「都斯麻」の記述

 


 『隋書』「俀国伝」の前半部の訓読     <『東西五月行の成立(五世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃)』より抜粋>
  『漢書』に記された「東鯷国」を追究して、今日まで類を見ない「倭国史」を描出した。この「倭国史」が決して荒唐無稽の
  ものでないことを知っていただくため、最後に、『隋書』「「俀国伝」の前半部の訓読を掲げる。本稿と照合していただきたい。
  筆者は、下記の赤字部を詳述したに過ぎない。

  俀国は百済・新羅の東南に在り。水陸三千里。大海の中に於て山島に依りて居す。
  魏の時、訳の中国に通ずるもの、三十余国。皆自ら王と称す。夷人、里数を知らず、但だ計るに、日を以てす。
  其(俀国)の国境、東西五月行、南北三月行、各々海に至る。其の地勢、東高く、西下り、邪靡堆(やまたい)に都す。
  則ち、魏志に謂わゆる邪馬臺なる者なり。
  古に云う。楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びに一万二千里。会稽の東に在り、儋耳と相近し、と。
  漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、又使を遣わして朝貢す。之を俀奴国と謂う。
  桓霊の間、其の国大いに乱れ、逓(たが)いに相攻伐して歴年主無し。 女子有り、卑弥呼と名づく。鬼道を以て衆を惑わす。
  是に於て、国人共立して王と為す。男弟有りて卑弥を佐(たす)け、国を理(おさ)む。
  其の王、侍婢千人有り、罕(まれ)に其の面を見る有る者、唯だ男子二人有り。王に飲食を給し、通じて言語を其の王に伝う。
  宮室・楼観・城柵有り。皆兵を持して守衛し、法を為すこと、甚だ厳なり。
  魏より斉・梁代に至り、中国と相通ず。
  開皇二十年(六○○)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤、阿輩難弥と号す。使を遣わして闕に詣(いた)る。
  上、所司をして其の風俗を訪(と)わしむ。使者言う。俀王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、
  出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば便(すなわち)理務を停(とど)め、云う「我が弟に委ねん」と。高祖曰く
  「此れ、太(はなは)だ義理無し」と。是に於て訓令して之を改めしむ。