[さきたま古墳群稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣/江田船山古墳出土の銀象嵌銘鉄刀]
■東西の鉄剣再考 <以下、『東西五月行(統一倭国)の成立』より引用>
「倭武の東西五月行」を証明するかのように出現したのが、東はさきたま古墳群稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣であり、西は
江田船山古墳出土の銀象嵌銘鉄刀である。
西の銀象嵌銘鉄刀の銘文は、大王の名の所に、腐食による欠字部分があり、推測が困難であった。
主要部分は次のとおりである。
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖……八十錬
天の下治らしめしし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、……八十たび錬り(東野治之)
一八七三年に発掘された江田船山古墳の鉄刀に対し、東の稲荷山古墳出土の鉄剣は一九六八年に出土し、一九七八年に銘文が
発見された。
辛亥年七月中記……乎獲居臣世〃為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
辛亥の年の七月中、記す。……乎獲居の臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼の宮に
在る時、吾天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すなり。(岸俊男、田中稔、狩野久)
約百年を隔てて出土した東西の鉄剣の銘文には驚くほどの共通点・対応点が見られる。
稲荷山古墳出土の鉄剣 江田船山古墳の鉄刀
① 獲加多支鹵大王 獲□□□鹵大王
② 杖刀人 典曹人
③ 百練 八十錬
④ 奉事 奉事
銘文のある鉄剣・太刀は次のように分布する。
稲荷山古墳の鉄剣の「辛亥年」を四七一年に当たると考え、獲加多支鹵をワカタケルと読み、倭王武を指すとした、古代史学の
主流の解読はある程度、穏当と思われる。
ただ、次に倭王武が雄略に当たるとし、全国の豪族が五世紀に、すでに畿内大和王朝に服属していたとした点のみが誤りであった
ようだ。
ワカタケルの読みは正しいようである。なぜなら、「加」の音価について、筆者はすでに、「お佐賀なるエミシ」説を提唱している
からだ。佐賀は古く佐嘉といった。サガとサカは同じ音価と考えられる。常陸国の那賀と那珂にいたっては、両者ナカである。
これはいわゆるズウズウ弁の音価でもある。北奥方言、雲伯方言、肥筑方言に共通する(東條操説による)。
そうすると、ワカタケルも古くはワガタケルの音価の可能性があり、「倭が武」すなわち「倭武」の訓読にほかならないことになる。
また、五文字目が「歯」であっても、ワガタケシとなり、同じく「倭武」の訓読になり得る。決して強引な訓みとは思われないのだ。
東西の鉄剣の出土は、やはり倭武の東西五月行の領域を示すのではないか。
すると、典曹人(宮廷に仕えた者か)は「水沼の皇都」に近く眠り、杖刀人(征東の事業に携わった物部氏か)は遠征先の「常陸の
皇都」近くに眠っているわけが理解できる。
両人はやはり同じ「獲加多支鹵大王」に仕えたと考えてよい。
■倭武と辛亥年
稲荷山古墳の鉄剣の「辛亥年」は四七一年に当たると考えられてきた。
だが、獲加多支鹵大王を倭武とするとき、
「興死し、武立つ。使を遣わして上表し、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す」
(『宋書』列伝)
が四七八年であるなら、鉄剣銘の「辛亥年」は五三八年と考えざるを得ない。
(一九七九年正月号の『歴史と人物』一一九頁に坂本義種氏の指摘がある。)
再度、稲荷山古墳鉄剣銘の訓読例を掲げておこう。
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、
奉事し来り今に至る。
ワカタケル大王の寺、シキの宮に在りし時、吾、天下を左治せり。此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すなり。
鉄剣製作が五三八年であっても、ヲワケの臣がワカタケル大王(倭武天皇)の「東西五月行」の天下を佐治したのは、倭武の寺が
磯城宮に在った時のことであるから、四七八年以降の近い年代であってもおかしくはない。
また、オホヒコ以来、世々杖刀人の首であったから、「東西五月行」は案外、五世紀初頭に成立していた可能性もある。
確かなところで、常陸国風土記に見える倭武天皇東夷巡幸の記事の年代を以って、「東西五月行」の成立としたいところだが、
それも定かでない。ひとまず、五世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃を「東西五月行」の成立と考えたい。
※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」です。
なお、「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページ内『隋書』「俀国伝」の中に
「東西五月行」の記述があります。