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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

  竈門神社=神武天皇の兄 五瀬命の死去した竈山の地名


 ※ 114年~115年の神武東征(第一次東征)の説明は、 こちら 

  五瀬命が死去し、竈山に葬るは、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の115年 五月です。

  以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

  そして、戦病死した五瀬命を紀の国の竈山に葬った。この竈山は、竈門神社の鎮座する太宰府の宝満山(三笠山、竈門山)を指す
  ようである。「竈」は一字でも「かまど」と読む。
  「紀の国」も景行紀に「御紀国」、神功・応神紀に「貴国」、私の抽出した「 水沼の皇都 」付近に「基山」もあり、「紀角宿禰
  のように「紀氏」も存在したことから、筑後平野一帯と考えてよいだろう。   

  竈門神社の由緒には、「祭神玉依姫命は海神の御女であり、鵜葺草葺不合命の后、そして神武天皇の母君である。」に始まり、
  次の神武の故事がある。
  「神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇は諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に
   取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ、されば天皇の大偉業は玉依姫神の御教化に因る
   事大なるものなり。

  私はここから「中洲の皇都」を抽出し、神武がこの宮で軍備を再編成し、この宮が第二次東征の出発地となったことを直感した
  のである。
  神武紀中の「中洲」の訓を「なかつくに」と改めた。竈門神社の由緒等に「中州」、同じ神武紀の後段に「葦原中国」と出てくる
  すべてが、表記は変わっても「ナカツクニ」という同一の地を指していることが明らかになったからである。
  この知見もすこぶる重要で、記紀以外の古伝に当る際に貴重な鍵となる。
  なお、竈門神社は、後に神功紀(神功摂政三年)に書かれた「磐余に都つくる。是をば若桜宮と謂ふ。」にも該当することが分かり、
  逆に「神日本磐余彦」の名の由来を知ったのである。(神武紀には別の由来が記されている。)
  因みに、竈門神社の神紋は、『続筑前風土記』に宝満山は「岩群れ」の山と記されていることを付記しておく。
     (中略)
  三年積る間に、船檝を脩へて、兵食を蓄へて、将に一たび挙げて天下を平けむと欲す。
  吉備の國高嶋宮ではなく、竈山の高千穂の宮に、雌伏三年。戊午(一一八年)春、神武は再び東征に趣いたようだ。私の分析した、
  第二次東征の発向である。吉備の国の記述はすこぶる怪しいが、三年間にわたる再軍備は史実と考えられ、次に繋がる。
     (後略)

 ※ 竈門神社(かまどじんじゃ)は、別称を「宝満宮」「竈門宮」。主祭神は、 玉依姫命  (たまよりひめのみこと)
   玉依姫命 (たまよりひめのみこと)は、ウガヤフキアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、
   五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)の四子をを産んだ。末子の
   若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。

 <所在地のGoogleマップ>

   

  宝満山(竈門山、三笠山)


  宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)

  竈門山(かまどやま)とも言う。

  鞍手郡誌(射手引神社社伝)によれば、神武天皇は一旦、 宝満山 (すなわち 筑紫)に陸路で凱旋する。

   鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)・射手引神社社伝による神武天皇・東征の地( 東征コース  h:宝満山(竈門山))。

  東征成就後、一旦陸路で、宝満山御母君玉依姫命の零位を祭る)に凱旋するは、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の120年です。

 ※ 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容を修正されています。
   肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。
   田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
   仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説は
   すべて間違いとの結果が出ました。
   勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。

 ※ 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページ鯷倭(しわ)の興亡
  「 神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。

   ・  気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、播磨の国を南下、瀬戸内の海に出る。

   ・吉備の  鬼の城 温羅(う ら)を滅ぼし、西進する。

   ・  牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に  穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。

   ・邪馬壱国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに )が帰順。

   ・続いて伊都(い つ)県主の祖五十迹手(いそて)が帰順。

   ・  橿日宮 に進軍。仲哀戦死。神功即位。穴門豊浦宮に帰還。

   ・淡海の  大津の宮  (豊津町)を滅ぼし、  御所ヶ谷神籠石 (旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。

   ・遠賀の地で物部氏を招集し、  ニギタ津 (鞍手町新北)を出航。

   ・橿日宮を経て、  松浦県 熊襲(勝門比賣)を滅ぼす。渡海して倭地を確保。筑紫( 蚊田の里 )に帰って応神を出産。
    穴門豊浦宮に帰還。

   ・相当の期間を経て、  美奈宜神社  平塚川添遺跡 などに拠った羽白熊鷲を殲滅。

   ・若桜宮(宝満山、竈山神社)に入る。数年後、筑後川を渡って  三潴 を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。

   ・  女山(ぞやま)神籠神石 に拠る田油津(たぶらつ)を討伐。
     * 田油津(たぶらつ)の兄夏羽が焼き殺された場所が田川市の  夏吉 

   ・豊、筑、火の三国(三韓)を征伐する。邪馬薹国滅亡。三六九年、  水沼の皇都 を建設。筑後遷都が行われた。

 ※「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」
  「東西五月行」の記述があります。

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