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 「君が行き」歌は磐姫皇后の御作歌にあらず ⇒ 髪長媛皇后に仮託された悲劇的な絶唱 

 <以下、著書『真実の仁徳天皇』より引用>

■万葉集巻二の相聞歌
 万葉集巻二の冒頭の四首(八五 ~ 八八)は、下記の通り。


 通説の代表格として、日本古典文学体系「万葉集」(岩波書店)から歌だけの訓読と大意とを参考に挙げる。

 85 君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
   (大意)わが君のお出ましは日数長くなりました。山にお迎えに行こうかしら。それともここに待ちこがれていようかしら。

 86 かくばかり 戀ひつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
   (大意)こんなにも恋い慕っていないで、高い山の岩を枕にして死んでしまったらよかったものを。

 87 ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
   (大意)こうしていつまでも君を待っていよう。私のながくなびいた黒髪が白くなる時までも。

 88 秋の田の 穗の上に霧らふ 朝霞 何處邊の方に わが戀ひ止まむ
   (大意)秋の田の穗の上に立ち込めている朝霞がやがて消えて行くように、どちらの方に私の恋は消えて行くだろうか。
       思いは凝って、晴れることがない。

■磐姫皇后の歌ではない
 解釈の問題点は後述することにして、上の四首の内容は明らかに心優しい女性の歌であり、記紀に描かれた磐之媛皇后の峻烈な性格とは
 決して相容れないものであることは明白だ。

 拙論「 鷦鷯取らさね 」で述べたように、磐之媛皇后は決して大鷦鷯天皇を恋い慕うような存在ではない。むしろ他の女性に熱を上げる
 大鷦鷯を軽蔑し、忌避する傾向すらある女性として描かれている。
 仁徳紀では最後は「天皇の矢田皇女への愛に怒り、三十年九月山城の筒城宮に去り、行幸があっても面会せず、三十五年六月同宮で薨去
 した」のである。
 したがって、記紀を背景にした場合には、四首の詠み人を磐之媛皇后とすることには固より無理が目立つのである。
  (後略)

■磐姫皇后の歌は誰に仮託されたか
  (前略)
 したがって、萬葉集巻二の冒頭部の四首は、大鷦鷯の乱とも云うべき歴史事実を背景にして、宇治天皇の崩御後に残された髪長媛皇后に
 仮託して読まれた連作と推測されるのである。  
 そう推測した時に、この連作に込められた、後世の人々の真意が見えてきたのである。

■「君が行き」歌の新解釈
   比良の宮 で宇治天皇の還御をお待ちになる髪長媛皇后に仮託されて歌は詠まれた。

   君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待 
   右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉

 【新解釈】
  大鷦鷯皇子に誘われ申し上げなさって、わが君は 高山 に国見をなさりに行幸遊ばされました。その行幸の日数があまりに長うなり
  ました。わが君の御身に何かあったのか心配でなりません。高山を訪ねてお迎えに上がりましょうか。それともご無事を信じて、
  ここ比良の宮でじっと我慢してわが君のお帰りをお待ちしましょうか。どうか、ご無事でお帰りくださいませ。

■「かくばかり」歌の新解釈
  髪長媛皇后の願いも空しく、宇治天皇は帰らぬ人となってしまわれた。その訃報が皇后の元に届いたという想定に立って、次の歌は
  詠われているようである。

   如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物呼 

 【新解釈】
  このように薨去なさったわが君を恋い慕ってばかりいないで、いっその事、わが君が最後に行幸なされた高山まで行き、その高山の
  岩根を枕にしてわが君の後を追って死にましょうものを。   

■「ありつつも」歌の新解釈
  一旦、自死を覚悟された髪長媛皇后をさらなる悲劇が襲う。
  大鷦鷯天皇の「 妻争い 」である。皇后は、宇治天皇の薨去後、大鷦鷯天皇の「叉妃」とされていまうのである。
  万葉集十三番歌と仁徳紀の歌謡がそれを明かす。
   (後略)

   在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日 

 【新解釈】
  いいえ、わが君のご無念を思えば、生き続けてでも、寿命の尽きる時に黄泉の国から私をお招きくださるであろうわが君をお待ちいた
  しましょう。今はなよなよと打ち靡く、私の黒髪が白くなるまで、遠い先の日までわが君を恋い慕い続けてお待ち申し上げます。   

  特に五句「霜乃置萬代日」の傍線部の万葉仮名の使い方が絶妙である。新解釈に示したとおり、髪長媛の黒髪に霜の置く日が相当先の
  日であることを臭せ、同時に宇治天皇の業績と死の真相を萬代先の日に伝えんとする皇后の決意を表現したと思われる。

■「秋の田の」歌の新解釈
  三首めまでの新解釈を施したら、連作四首が唐詩に見られる「起承転結」の構成を採っていることも見えてきた。

   君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
  (起)宇治天皇の高山からのご還御が遅いのを不安にお思いになる。

   かくばかり 戀ひつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
  (承)宇治天皇の突然の死を嘆き悲しみ、共に身罷ろうとされる。

   ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
  (転)宇治天皇の死の真相を知り、一転して生き続けることを決意される。

   秋の田の 穗の上に霧らふ 朝霞 何處邊の方に わが戀ひ止まむ
  (結)宇治天皇への愛情を抱き続けながらも、自らの暗い運命を嘆かれる。

  萬葉集は明らかに中国文学の影響を色濃く受けた文学である。 (後略)

   秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息 

 【新解釈】
  秋の田の刈穗を屋根に葺いて、わが君と雨漏りのする 宇治の宮 で過ごした幸せな三年間が思い出されてなりません。わが君の亡く
  なられた今年の秋の田の穗の上にかかっている朝霧のように悲しみに沈んだ我が胸中、朝霧はいつか、片方に晴れて行きましょうが、
  狹霧のまん中に閉じられたような私の恋心は、いつどこでやむことでしょうか。それはきっと、私の寿命が尽きる時、わが君と彼岸で
  再会し申し上げるときのことでしょう。その日まで私は幾多の苦難をも耐え忍びましょう。   

おわりに
 万葉集巻二の冒頭の相聞歌は髪長媛皇后に仮託された、悲劇的な絶唱であった。結局、「難波高津宮御宇天皇代」の標題だけが正し
 かったのである。割注も「大鷦鷯天皇」のみ正しく、謚曰仁徳天皇」という部分こそが後世の最大の過誤であった。
   (後略)

 *.磐姫皇后思天皇御作歌四首 ⇒ 髪長媛皇后思天皇御作歌四首