What's time is it now?

 facebook 
  関係サイト

 詫間電波工業高等専門学校
 電波通信学科2期生同期会

  サイト・ブログ
  リンク
レーダー・ナウ
紫外線情報

黄砂情報
花粉情報

PM2.5分布

*.以下、管理人専用の項目です。

  パスワード保護をしています。

  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

  中津原=「豊前国ナカ津」の地=「比良の宮」


  福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 真実の人徳天皇-香具山に登りて望國したまふ天皇」の
   資料「 宇治の京 村高完成版 」の26ページに『香春町に「豊前国ナカ津」の地が存在する。あの勾金荘に 「中津原」の地が
   ある。』の記述があります。<以下、『宇治の京』より引用>

   そこは、八十氏河の一、御祓(みそぎ)川のほとりであり、ここに「比良の宮」が築かれ、後世、「藤原宮」と呼ばれた可能性が
   窺われる。

   この「比良の宮」とはどこか。記紀は「比良の宮」の名さえも黙秘して語らぬ。僅かに、「山上憶良大夫の類聚歌林中の
   『一書』」にあると、万葉集の左注がその名を唯一留めた。

  ■ 万葉集 7番の新解釈
   金の野の草を刈って屋根にふいて宿っていた、あの 宇治の宮室 (福岡県田川郡香春町宮原附近)の質素な造りがなつかしく
   思い出される。
   山上憶良大夫の類聚歌林を調べると書いてあることには、
   一書に戊申の年(宇治天皇三年=四〇八か)に(宇治天皇が)比良の宮(菟道河沿いの地か)に行幸されるときの大御歌と
   いっている。(後略)
 ■ 新考
   宇治天皇三年「冬十月に、甫めて課役を科せて、宮室を構造る。是に、百姓、領うながされずして、老を扶け幼を携へて、
   材を運び簣こを負ふ。日夜と問はずして、力を竭して競ひ作る。是を以て、未だ幾時を經ずして、宮室悉に成りぬ。

   の条の結果、天皇は新宮殿と思われる「比良の宮」に遷宮された。

   下記の『万葉集 50番』にある「淡海乃國」、「田上山」、「八十氏河」は、
   『日本書紀 神功紀』の歌「淡海の海  齋多 の濟わたりに 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ」と比較すれば、古遠賀湾の
   「淡海」から 「田上」を過ぎて「菟道河(この場合は彦山川か)」に溯った辺りでもある。

   同時に、『古事記 應神記』において、應神天皇が宇遅能和紀郎子の母となる、矢河枝比売に 木幡村 で出遭う直前に、
  「一時に、天皇、近つ淡海国に越え幸でましし時に、宇遅野の上に御立ちし、葛野を望け、歌ひ曰りたまはく、千葉の葛野を
   見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ
」の章段があり、「近つ淡海国」と「宇遅野」とが近いことが知られる。

   つまり、「比良の宮」は「近つ淡海」にごく近く、すなわち、『 万葉集 31番 』「ささなみの 比良の大わだ よどむとも 
   昔の人に 会はむと思へや
」の歌に詠まれた「比良の大わだ」にごく近いことになる。

   『万葉集 1715番』にも「楽浪之 平山風之 海吹者 釣為海人之 袂変所見(ささなみの 比良山風の 海吹けば 
   釣する海人の 袖かへる見ゆ)
」という歌があり、平山と海がごく近い。

   『 万葉集 29番 』の「青丹よし平山」の平山も通説ではナラヤマと訓まれるが、あるいはヒラヤマかも知れない。

 『万葉集7番歌』

 『万葉集50番歌』「藤原京の役民の作りし歌」


 <所在地のGoogleマップ>