※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を興味で掲載したものです。
邪馬壹國こそなかった
(「三国志」より「後漢書」の成立の方が古い)
①陳寿の『三国志』「孫権謝夫人伝」の中に「謝夫人の弟謝承が、後漢書百餘卷を製す」の記述がある。
したがって、陳寿(233年 - 297年)は、謝承の書いた『後漢書』を見て、『三国志』を書いている。
②陳寿の書いた『三国志』に裴松之(372年 - 451年)が注を付けた『三国志』に「謝承後漢書曰」の記述がある。
⇒ 謝承の『後漢書』は、250年頃(孫権の時代)に書かれている。陳寿の『三国志』は、285年に成立しているので
『後漢書』の方が35年も先に出来ている。
■「陳寿の見ていた後漢書」の説明は、 こちら
③范曄(397年 - 446年)の『後漢書』に章懐太子李賢(651年 - 684年)が注を付けた『後漢書』にも「謝承書曰」の記述がある。
■「范曄後漢書李賢注」の説明画像は、 こちら
④『翰苑(かんえん)』は、唐の時代に張楚金によって書かれ、後に雍公叡が注を付けた太宰府天満宮に残る書。
『翰苑』の「高麗伝」に唐の時代に3種類の『後漢書』が存在した。『魏牧魏後漢書』、『范曄後漢書』、名前の無い『後漢書』が
あり、名前の無い『後漢書』が謝承の『後漢書』という結論に至る。
張楚金の本文「憑山負海鎮馬薹以達都」に対し「後漢書曰」=(謝承の『後漢書』)の記述があり、後に「魏志曰」の注の記述が
ある。(「三国志」より「後漢書」の方が古い。)
■「謝承後漢書と翰苑」の説明は、 こちら
⑤『隋書』「俀國伝」顕慶元年(656年)の記述は「・・・邪馬臺者也」、『翰苑』「倭国条」張楚金 顕慶五年(660年)の記述は
「憑山負海鎮馬臺以達都」、『范曄後漢書』「李賢注」儀鳳元年(676年)の記述は、「・・・邪馬臺國」とあり、唐の同時代に
書かれている。
⇒ 唐の時代までは「邪馬壹國」の表記は無かった。すべて「邪馬臺國」の表記だった。
■「邪馬壹國こそなかった」の説明は、 こちら
⑥『范曄後漢書』「李賢注」の中の「其大倭王居邪馬臺國.案今名邪摩惟,音之訛也.」の記述で、「ヤマイ」と読んでいる。
唐の時代までは、「ヤマダイコク」、「ヤマイコク」はあったが、「ヤマイチコク」は無かった。
■「邪馬壹國こそなかった②」の説明は、 こちら
※ 福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料 「 26邪馬壹國こそなかった 」は、
こちらです。