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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を管理人の興味で示したものです。

[謝承後漢書と翰苑(かんえん)

福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料「 26邪馬壹國こそなかった 」の
  3ページ「謝承後漢書の行方」の中に下記の翰苑』成立の記述があります。


  李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を書き上げている。
  張楚金は高宗(在位六四九~六八三)に仕え、則天武后(在位六八四~七〇五)の時、配流先の嶺表で死亡している。章懐太子賢は高宗・
  則天武后の第六子であり、「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文はほぼ同時代の成立である。

 4ページ『翰苑』雍公叡註の証明に下記の記述があります。

 『翰苑』雍公叡註は、唐太和年間(八二七~八三五)の成立とされる。
太和五年(八三一)以前の成立とする説もある。

 雍公叡は、『翰苑』高麗条において三種の「後漢書」を引用している。一に「魏牧魏後漢書」、二に「范曄後漢書」、三に「後漢書」。「魏牧魏後漢書」は今も未詳である。二の「范曄後漢書」は現存する。三の無名の「後漢書」は誰の撰か。これこそ失われた「謝承後漢書」であった。
 なぜなら、雍公叡は『翰苑』倭国条の第一句「憑山負海鎭馬臺以建都」の注において、「魏志」の前に「無名の『後漢書』」を引いているからである。魏志即ち三国志の前に成立した後漢書は「謝承後漢書」以外にあり得ないからである。この観点に立てば、我々は「天下の孤本『翰苑』東夷伝」中にたとえ部分とはいえ、『謝承後漢書』を目の当たりにしているのである。ほとんど奇跡を目の当たりにしているのである。


 雍公叡が「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば「新・後漢書」を『范曄後漢書』の名で、区別して引用していることがいよいよ明らかになってきた。このことを認識すれば、『翰苑』雍公叡註の倭国条は深い示唆に富む。