※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を管理人の興味で示したものです。
[陳寿のみていた「後漢書」=謝承の「後漢書」]
※ 福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再
構築に向けて-」の資料「 26邪馬壹國こそなかった 」の1~2ページ
の記述です。
■ 陳寿の見ていた「後漢書」
先に三国呉の人謝承の撰した『後漢書』を挙げてきたが、陳寿の『三国志』呉書にそのことが、実にあっさりと記してあった。「呉主権謝夫人伝」である。その終わりに、謝承は、呉主孫権に寵愛された謝夫人の弟とある。
謝夫人は会稽郡、山陰の生まれである。父・謝煚は、漢の尚書郎や徐県の令であった。孫権の母の呉夫人は、孫権の妃として、(会稽の名門と思われる)謝煚の娘である謝夫人を選んだ。(次の伝に出てくる徐夫人を娶ったのが西暦二〇〇年~二〇八年の事と断定できるので、謝夫人を妃としたのはそれ以前の事と推定できる。
会稽の名門の娘を妃に迎える時期や、孫権夫人伝として最初に立てられている点、さらに孫権の年齢などを考え合わせると、謝夫人を妃としたのは、一九〇年代後半と考えられる。)謝夫人は寵愛を受けたが、(二〇〇年~二〇八年の間に、)孫権が徐琨の娘である徐夫人を妃に迎える際、謝夫人を徐夫人の下に置こうとした。だが謝夫人はこの扱いを受け容れることが出来ず、次第に寵愛を失い、早世した。
その後十余年、謝夫人の弟の謝承が、五官中郎将に任じられ、やがて、長沙東部都尉・武陵太守と遷った。謝承は「後漢書」百余巻を著した。(原漢文、訳・解説・傍線は福永)
陳寿の記録のとおりであれば、謝承の「後漢書」は、『三国志』を著した陳寿自身も、『新・後漢書』を撰した范曄も、『三国志』に注した斐松之も、皆一様に「謝承の『後漢書』」を見ていたことになる。事実、斐松之(三七二~四五一)は明らかに「謝承後漢書に曰く」として、『謝承後漢書』を随所に引用しているし、范曄(三九七~四四六)は斐松之と同時代、同朝廷内(南朝劉宋)の人である。
これらのことから、魏志倭人伝は「王沈の魏書」と「魚豢の魏略」とを基に書かれたとする見方に、「謝承の『後漢書』」を初めとする「旧・後漢書」群をも参照したとする見方を加えなければならないという観点に至った。
また、斐松之が「謝承後漢書」・「魏略」等を『三国志』に加注していることは厳然たる事実だが、そこに「范曄後漢書」の東夷伝をも見た可能性を置くなら、「旧・後漢書」群を参照したはずの「范曄後漢書」と併せる時、陳寿の「魏志倭人伝」に「邪馬壹國」の表記があったとする古田仮説はおよそ成立しないのである。後段に詳述する。