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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)を管理人の興味で示したものです。

[邪馬壹国こそなかった②]

福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再
  構築に向けて-
」の資料「 26邪馬壹國こそなかった 」の6~8
  ページ
『范曄後漢書』李賢注の証明の中に下記の「邪馬壹國こそ
  なかった」
の記述があります。

  『范曄後漢書』李賢注の証明
   其大倭王居邪馬國.案今名邪摩,音之訛也.

   右の『范曄後漢書』李賢注にも「邪馬壹國こそなかった」ことの
  一証明が実はなされていた。これを全く別の視点から明かそう。

      (中略)

   大事なことは、李賢とその部下も唐詩の平仄法をよく知っていた


 ということだ。つまり、彼らは音韻には人一倍気を遣う士大夫階級であったことにある。その点に留意すれば、先の『范曄後漢書』李賢注の一節の意味するところが実に重要である。

 其大倭王居邪馬國.案今名邪摩,音之訛也.

 其の大倭王邪馬臺國に居す。案ずるに今の名邪摩惟ならん、音の訛れるなり。 「邪馬臺」の今の名を「ヤマヰ」と推量したというので
ある。これを以て、古田仮説を信奉する人々は、この注こそ「邪馬壹」表記の証拠だと息巻く。はたしてそうだろうか。
 先に掲げた杜甫の詩中に「臺」字がある。今日の漢和辞典に用いられる「平水韻」(南宋末一二五三年刊行の「韻略」を指す、元代に
百七韻から百六韻になる)によれば、平声(上)十「灰(-ai)」の韻である。これに対し、「壹」は「一」と同じで、李白の詩にある
とおり、平水韻では入声四「質(-it)」の韻である。「臺」と「壹」は四声が異なり、平仄法の上では全く相容れない韻である。
 それでは、李賢注の「惟」はどうかというと、平水韻では平声(上)四「支(-i,-wi)」の韻である。したがって、「惟」は「壹」の証拠
には断じてならない。むしろ「邪馬壹」でなかった確実な証拠となる。だからといって、「邪馬臺」の証明にもなっていないのである。
「臺」と「惟」は平声ではあるが、韻名が合わない。つまり、細かくは韻が違うのであり、唐詩でも決して押韻することはないのだ。
一体、李賢らは何を根拠にして「邪馬臺」を「邪摩惟=ヤマヰ」と推量したのであろうか。
 答えは実に平凡且つ明瞭であった。「邪馬台」表記の存在である。
 「台」は常用漢字でも「臺」の略字として、呉音ダイ漢音タイで用いられる。正しくは、「臺」とは本来別字で、「イ」と読まれ、
福岡県糸島の怡土城の「怡」とも同じで、平水韻でも平声(上)四「支(-i,-wi)」の韻である。つまり、「惟」と一致する韻である。
久留米大学の公開講座では「邪摩惟」を旧来の辞書のとおり「ヤマヰ」と紹介した。そこで、「イ」と「ヰ」の違いはどうか、すなわち
「声母」の違いはどうかと尋ねられたが、康煕字典の「唐韻」にも、「台 與之切」、「惟 以追切」とある。「以」はひらがな「い」
の元になった万葉仮名であり、両字の反切上字を見る限り、ア行のようである。だが、母音は「追」とあるから、ここでも「ヰ」として
おく。つまり、「台」と「惟」の音は「通音」するに留めておく。
 以上のことから、音韻に詳しい李賢らの前に、「邪馬臺國」「邪馬台國」の両表記が存在し、「邪馬國」表記が決して存在しな
かったことだけは確かなのである。
 ここで、『翰苑』雍公叡註に引かれた「謝承後漢書」の表記の一部を今一度眺めてみよう。

  去其國万二千里(去其國萬二千里)、与朱雀・儋耳相近(與朱崖・儋耳相近)

 括弧内は「范曄後漢書」の表記である。『翰苑』東夷伝(雍公叡註)は九世紀初に書写されたようだ。最澄・空海が唐に留学したのが
八〇四年。韓愈の没年が八二四年。白楽天の没年が八四六年。したがって、『翰苑』は完全に唐代の同時代史料でもある。そこに、
「万(萬)」や「与(與)」の略字が見えるとき、「台(臺)」の略字もあり得よう。だが、非力の私には、「邪馬台國」表記を広範な
漢籍から見出すことはできなかった。ぜひ、江湖の智者に問いたいところである。
 以上の全ての観点を総合しても、『范曄後漢書』李賢註の「邪摩惟」は、「邪馬台」表記を併せもつ「邪馬臺」に付けられていたこと
を証明するものだった。その証明からも「邪馬壹國こそなかった」と断言せざるを得ないのである。