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 ※ 倭国(豊国)北伐考(平成28年3月21日、於 久留米大学)講演より

  氣長足姫尊の豊国北伐


 <気比の宮~穴門豊浦~御所ヶ谷(忍熊王を殲滅)>

 <ニギタ津~筑紫末羅縣~水沼の皇都>


 ※「神功天皇の調略」 穴門豊浦(関門)から船で南下し紀伊国(城井)へ。忍熊王の居城、山城京(御所ヶ谷)と周辺の地名。
            紀伊国(城井)、務古水門/広田国(草場)、大津渟中倉(苅田・字原)、長狹国(長狹)、長田国(小長田)

 ※「忍熊(熊坂)王の逃避行」 熊坂/七曲(仲哀峠)、菟道/栗栖(宮原)、逢坂(大坂)
   神功軍1(武振熊):山背、神功軍2(武内宿禰/神功):菟道河北、神功軍3(五十迹手/熊鰐):小竹宮

 神功天皇の調略/忍熊(熊坂)王の逃避行

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大津渟中倉(苅田・字原)
務古水門/広田国(草場)
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(城井)
熊坂/七曲
(仲哀峠)
 逢坂
(大坂)
菟道/栗栖
(宮原)
  比良
(中津原)
山背:神功軍1
(武振熊)
 菟道河北:神功軍2
 小竹宮:神功軍3
(五十迹手/熊鰐)

 ■『古事記 仲哀記』

  

 *.忍熊王の入水自殺の場所は、 齋多(せた)  


  『日本書紀 神功紀 摂政元年
  爰に新羅を伐ちたまふ明年の春二月に、皇后、群卿及び百寮を領ゐて、穴門豊浦宮に移りたまふ。
  即ち天皇の喪を収めて、海路よりして京に向す。時に麛坂王・忍熊王、天皇崩りましぬ、亦皇后西を
  征ちたまひ、幷せて皇子新に生まれせりと聞きて、密に謀りて曰はく、「今皇后、子有します。
  群臣皆從へり。必ず共に議りて幼き主を立てむ。吾等何ぞ兄を以て弟に從はむ」といふ。乃ち詳りて
  天皇の為に陵を作るまねして、播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋に絚して、
  其の嶋の石を運びて造る。即ち人毎に兵を取らしめて、皇后を待つ。是に、犬上君の祖倉見別と
  吉師の祖五十狹茅宿禰と、共に麛坂王に隸きぬ。因りて、將軍として東國の兵を興さしむ。
  時に麛坂王・忍熊王、共に菟餓野に出でて、祈狩して曰はく、「若し事を成すこと有らば、必ず
  良き獸を獲む」といふ。二の王各假庪に居します。赤き猪忽に出でて假庪に登りて、麛坂王を咋ひて
  殺しつ。軍士悉に慄づ。忍熊王、倉見別に謂りて曰はく、「是の事大きなる怪なり。此にしては敵を
  待つべからず」といふ。則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。時に皇后、忍熊王師を起して待て
  りと聞しめして、武內宿禰に命せて、皇子を懷きて、横に南海より出でて、紀伊水門に泊らしむ。
  皇后の船、直に難波を指す。時に、皇后の船海中に廻りて、進むこと能はず。更に務古水門に還りま
  して卜ふ。是に、天照大神、誨へまつりて曰はく、「我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を
  廣田國に居らしむべし」とのたまふ。即ち山背根子が女葉山媛を以て祭はじむ。亦稚日女尊、誨へ
  まつりて曰はく、「吾は活田長峽國に居らむとす」とのたまふ。因りて海上五十狹茅を以て祭はしむ。
  亦事代主尊、誨へまつりて曰はく、「吾をば御心の長田國に祠れ」とのたまふ。則ち葉山媛の弟長媛を
  以て祭はしむ。亦表筒男・中筒男・底筒男、三の神、誨へまつりて曰はく、「吾が和魂をば大津の
  渟中倉
の長峽に居さしむべし。便ち因りて往來ふ船を看さむ」とのたまふ。是に、神の教の隨に鎭め
  坐ゑまつる。則ち平に海を度ることを得たまふ。忍熊王、復軍を引きて退きて、菟道に到りて軍す。
  皇后、南紀伊國に詣りまして、太子に日高に会ひぬ。群臣と議及りて、遂に忍熊王を攻めむとして、
  更に小竹宮に遷ります。 (中略)
  三月の丙申の朔庚子に、武內宿禰・和珥臣の祖武振熊に命して、数万の衆を率ゐて、忍熊王を擊た
  しむ。爰に武內宿禰等、精兵を選びて山背より出づ。菟道に至りて河の北に屯む。忍熊王、營をでて
  戦はむとす。時に熊之凝といふ者有り。忍熊王の軍の先鋒と為る。 (中略)
  時に武內宿禰、三軍に令して悉に椎結げしむ。因りて号令して曰はく、「各儲弦を以て髮中に藏め、
  且木刀を佩け」といふ。既にして乃ち皇后の命を挙げて、忍熊王を誘りて曰はく、「吾は天下を
  貧らず。唯幼き王を懷きて、君主に從ふらくのみ。豈距き戰ふこと有らむや。願はくは共に弦を
  絶ちて兵を捨てて、与に連和しからむ。然して則ち、君主は天業を登して、席に安く枕を高くして、
  專萬機を制まさむ」といふ。則ち顯に軍の中に令して、悉に弦を斷り刀を解きて、河水に投る。
  忍熊王、其の誘の言を信けたまはりて、悉に軍衆に令して、兵を解きて河水に投れて、弦を斷らしむ。
  爰に武內宿禰、三軍に令して、儲弦を出して、更に張りて、眞刀を佩く。河を度りて進む。
  忍熊王、欺かれたることを知りて、倉見別・五十狹茅宿禰に謂りて曰はく「吾既に欺かれぬ。今儲の
  兵無し、豈戰ふこと得べけむや」といひて兵を曳きて稍退く。武內宿禰、精兵を出して追ふ。
  適逢坂に遇ひて破りつ。故、其の處を號けて逢坂と曰ふ。軍衆走ぐ。狹々浪の栗林に及きて多に
  斬りつ。是に、血流れて栗林に溢く。故、是の事を惡みて、今に至るまでに、其の栗林の菓を御所に
  進らず。忍熊王、逃げて入るる所無し。則ち五十狹茅宿禰を喚びて、歌して曰はく、
  
   いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜せな
  
  則ち共に瀬田の濟に沈りて死りぬ。時に武內宿禰、歌して曰はく、
   
   淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤しも
  
  是の其の屍を探けども得ず。然して後に、日数て菟道河に出づ。武內宿禰、亦歌して曰はく、
  
   淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ