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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

   ・「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三

  赤村(阿柯:上赤と下赤)=「飛ぶ鳥の明日香」の地


 ■ 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命の 豊国北伐  倭国(豊国)北伐考(平成28年3月21日、於 久留米大学)講演より

*1.吾勝野(上を津野、下を阿柯)
   『田川産業経済大鑑』のPage373~375は、下記の『越境と
   しての古代[6]』、「神武は、筑豊に東征した」の引用を
   参照下さい。

*2.豊国我鹿屯倉/我鹿八幡神社
   『赤村史・誌資料』の「太宰管内志」は 字常光 のページに
   『越境としての古代[6]』、「神武は、筑豊に東征した」の
   引用を掲載していますので参照下さい。
   尚、我鹿八幡神社が、300年前まであった場所には、現在、
   光明八幡神社がある。その場所が、 字岡本 であり飛ぶ鳥の
   明日香の「飛鳥岡本の宮」の地である。

*3.天之忍穗耳命は、 英彦山 を下り、最終的に 香春岳 
   行った。


 福永晋三先生の著書『倭歌が解き明かす古代史 真実の仁徳天皇』の 「Ⅱ 飛ぶ鳥の明日香』の中の「赤村の歴史・古伝承」の項に


   吾勝野(岩石山の東麓一帯の野)----- 津野
                    |
                    --- 阿柯 ----- 上赤
                             |
                             --- 下赤

 の記述があります。

 以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 失われた古縁起により、神武は「遂に 狭野 を超ゆ」の後、彦山川に沿って、 天香山 を先ず攻撃し奪取したことを確認できたのである。
 赤村はもと上赤、下赤、山浦、大内田、小内田といった5カ村を合併したもので、上赤、下赤、本村はかつて吾勝野といっていた。
 太古において吾かつ山上(現在の岩石山)に天祖吾勝尊が天降ったということから起因して、この山の東麓一帯を吾勝野と称した
 のである。
 それが景行天皇の時、田河の川上にいた土蜘蛛麻剥の残賊を誅滅の後、この山上の吾勝尊の神社に奉賽されて遠く東麓を望みこの麓は
 沃土南北連なって狭く長いため、自今二村を形成するのがよかろうといわれたので、これより上を津野といい下を阿柯と称した。
 のち阿柯を上赤、下赤の二村に分けた。(田川産業経済大鑑,p三七三~三七五)

 万葉集の「飛ぶ鳥の明日香の・・・」  

 *.枕詞:飛ぶ鳥の明日香⇒飛鳥(あすか)と言うように、長谷(ながたに)の初瀬⇒長谷(はせ)、日の下(ひのもと)

   草香⇒日下(くさか)と言うようになった。

 ※ 『日本書紀』「神武紀 戊午年 六月」の記述

・神武天皇の東征時に道案内をした  求菩堤山の八咫烏  が褒美で
 貰った土地。
・烏(カラス) ⇒ 飛ぶ鳥は、カラス。
 カラスの鳴き声:「アー」⇒「あすか」。
 カラスは、太陽神。
・下記の古今和歌集は、飛鳥川を詠んだ歌で、現在に残る川の根拠。
 飛鳥川の場所より飛鳥の地は、赤村である。

福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料
  「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」の16ページに『121年 邪馬台国
  創始。二月、論功行賞。頭八咫烏、亦賞の例に入る。  求菩提山 
   英彦山 から川水系に沿って、今日の田川郡 赤村より  烏尾峠 辺り
  までの「飛ぶ鳥の明日香」の地の領有を認められたしい。』の
  記述があります。


   

  犀川(今川)=飛鳥川(あすかがわ)、河川争奪は、灰坂辺り


福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 それは香山(かぐやま)の東にあった!」の資料
 「 狂心の渠と吉野宮 」の17ページに『古今和歌集の下記の歌より「 飛ぶ鳥の明日香」の地を田川郡赤村と比定した。』と
 あります。

福永晋三先生の著書『倭歌が解き明かす古代史 真実の仁徳天皇』の 「Ⅱ 飛ぶ鳥の明日香』の中の「犀川の流路変遷」の項に
  「今川は、以前は犀川と呼ばれていた。その犀川が赤村の昭和四十年代まで灰坂と呼ばれた辺りでほぼ直角に北から東の方へ向きを
  変えています。
  赤村付近を源流として行橋市方面に流れていた現在の下流部分(古事記で山代川/日本書記で山背川と読んでいる)が、犀川の源流を
  奪取した為に元の犀川の下流部(現御禊川)は源流と絶たれ、附近の丘陵地帯のみが水源となり現在のような細い川になった。」の
  記述があります。

   河川争奪(かせんそうだつ)の説明は、  こちら  をご参照下さい。

   『日本書紀 仁徳紀』の「流末」に関する今川の流れが変わった影響の記述は、  こちら  をご参照下さい。

・古今和歌集 一八・雑 九三三 詠み人知らず 


 *.詠み人知らずの歌は、万葉集のできた同時期の古い歌で、実景描写の歌らしい。

   世の中に変わらないものがあるだろうか。飛鳥川の昨日は淵だったところも、今日は浅い瀬になってしまった。

畝尾山の方角に流れていたと思われる歌が、『古事記 当芸志美美命の反逆』の記述にある。

   伊須氣余理比賣が御子達に危険を知らせる歌


 *.狭井河(さいがわ)

    ⇒ 「サイ川の方から雲がわきおこり、ウネビ山の木の葉さやさやと鳴り騒いでいる。」とあり、サイ川は畝傍山(香春一ノ岳)

    近くを流れていた。

    河川争奪前は、現在の御禊川(みそぎがわ)の流れがサイ川の流れだった。

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