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[福永晋三先生の万葉集2番、15番、7番、28番の新解釈]


 <以下、『宇治の京』より引用>

 古事記に云う、聖帝の御世が三年との記述と整合させるなら、宇治天皇三年夏四月に、天皇は再び、天の香山に登りまして国見を
 なさったと考えられる。
 その時の歌こそが、万葉集二番の長歌十五番の反歌と思われる。この組み合わせは、『万葉集形成の謎』(山口博)に触発され、
 藤原定家の「長歌短歌之説」を参照した結果、二番歌に反歌のあったことが記録されている所から考察して得られた、筆者独自の
 復元に拠る。

   天皇登二香具山一望國之時御製歌
  山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎爲者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都
  怜國曽 蜻嶋 八間跡能國者

   *.は、「忄(りっしんべん)に可」の漢字

   反 歌
  渡津見乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曾

   天皇香具山に登りて望國(くにみ)せし時の御製歌
  倭には 群山有れど 取り鎧ふ 天の香具山 登り立ち 國見を爲れば 國原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ 
  うまし國そ 『』蜻蛉嶋  倭の國は
   反 歌
  わたつみの 豊旗雲に 入日射し 今夜の月夜 さやに照りこそ

 【新解釈】
  宇治天皇が天の香山に登って国見をなさった時の御製歌
 倭国には多くの山々があるけれども、鎧を身に着けたような山肌をした天の香山(香春三ノ岳)に、登り立ち国見をすると、
 今や(豊国の)国原は人民の炊煙が盛んに立ちのぼる。淡海(古遠賀湾や行橋の入り江)の海原は鴎(かまめ、瀬戸内地方の方言)が
 盛んに飛び立つ。よい国だ、秋津島倭の国は。
  反 歌
 淡海の豊旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月もさやかに照ることであろう。
 (三稔みとせの間ころ、百姓富寛ゆたかなり。頌徳ほむるこゑ既に滿ちて、炊烟亦繁し。豊秋津島倭の国の将来も明るい。朕の心も
  晴れやかだ。)

 以前は、「天乃香具山」を大分県別府市にある鶴見岳に比定してきた。古代の鶴見岳は活火山であったため、天皇は登らないとし、
 国東半島東南端に鎮座する奈多八幡社の神体山、見立山に登って詠んだ歌と解していた。
 今回、ようやく宇治天皇の聖帝伝説が歴史的背景にあることが明瞭に知られたから、三度変更して、「天乃香具山」を「香春岳三ノ岳
 に比定し直さざるを得ない。
 「天皇、香山に登りまして、遠に望みたまふに、烟氣多に起つ。」や「天皇の曰はく、『烟氣、國に滿てり。百姓、自づからに富める
 か』とのたまふ。
」の言動に何よりふさわしい「御製歌」と考えられるからである。
 万葉歌は歴史を詠う。

 また、宇治天皇こそが本気で儒教的聖帝の御世を現出せしめようとされた帝でもあった。すなわち、「真実の仁徳天皇」であらせら
 れた。それを万葉集の名歌が証言していたことも解明できたのである。
 このわずか三年の聖帝の御世は、大鷦鷯天皇、即ち「偽の仁徳天皇」に総てを奪われながらも後世に多大な影響を及ぼした。
 例えば、わが国でもっとも広く読まれ、親しまれてきた古典に、『(小倉)百人一首』がある。平安時代末、鎌倉時代初の藤原定家
  (一一六二~一二四一)が撰者であるようだ。
 百人一首には、室町時代以降、膨大な注釈があり、百人一首の重要な歌に、聖帝の影響のあることが知られる。

 まず、一番の歌についてである。抄録する。
  一 秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ   天智天皇

 現代語訳
 秋の田のほとりの仮の小屋は、ほんの間に合わせに荒く葺いた粗末なものだから、その小屋で番をしている私の袖は、ふけゆく夜露に
 しっとりと濡れつづけていることだ。

 【新考】
 「王道の御述懐の歌」および「農民の辛苦を思いやられた聖帝の歌」との解釈は正しいと思われる。
 「秋の田のかりほの庵」は万葉集七番歌の「金(あき)の野のみ草刈り葺き」たる「仮廬」の本歌取りともいうべき手法であろう。
 「農事のために稲田のほとりに作った仮小屋」ではあるまい。
 「とまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ」とは、やはり、宇治天皇の「宮垣崩るれども造らず、茅茨壊るれども葺かず。風雨隙に
  入りて、衣おほみそ被おほみふすまを沾うるほす。星辰壞やれまより漏りて、床みゆか蓐みましきを露にす。」を下敷きにして、
 「天皇自らの衣手(袖)が雨露に濡れている」ことを詠っているようだ。
 したがって、天智天皇があるいは、宇治天皇の王道政治を偲ばれて、宇治天皇に仮託して詠んだ歌とも解される。
 だが、日本書紀成立後の平安時代末の藤原定家にはもはや、仁徳紀の「聖帝の御世」との理解しかできなかったはずだ。
 定家にとって、万葉集七番歌の真意は残念ながら見えていなかったであろう。

 【新解釈】  
 秋の田の稲穂を刈り、その藁を苫に編み、仮廬のようなわが宮殿の屋根を葺くが、苫の目が粗いので時々、わが袖は漏れ来る雨露に  
 濡れることだ。それでも、朕は民の暮らしが豊かならんことを願う。

  二 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山   持統天皇

 【新考】
 元歌は万葉集である。
     天皇御製歌
  二八 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

     春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山

 それでは、「天之香具山」を「香春岳三山」に比定し直すと、どのような実景描写や主題が浮かび上がるであろうか。
 まず、香春岳はすべて石灰岩の山と考えてよい。全体が「白く輝く」カグ山にふさわしい。しかも大物主神以来、神々のいます神聖な
 山であった。
 白妙は白い栲の布。コウゾ類の木の皮の繊維で織った布で、純白で、つやがある。「白妙の」は後に「衣・袂」に掛かる枕詞となるが
 この歌では原義のままである。相当の古歌とみるべきであろう。
 春が過ぎ夏が来たらしい。根拠は、香具山の周囲の山々は濃い緑を繁らせ、それとは対照的に香具山だけは夏の強い日差しを受けて、
 真っ白に輝いていることにある。
 それはあたかも造化の神がそこだけに「純白のつやのある白妙の衣を乾してある」かのように眼に鮮やかに映るのである。
 主題はまさしく「眼前に交代する季節感」を現実の実景に捉ええた簡勁な描写にこそある。

 さらに拙論「真実の仁徳天皇」で述べたが、この歌の背景には、仁徳紀の次の記述が深く関わるようである。
 (七)年の夏四月の辛未の朔に、天皇、『香山に登りまして』(臺の上に居しまして)、遠に望みたまふに、烟氣多に起つ。
 是の日に、皇后に語りて曰はく、「朕、既に富めり。更に愁無し」とのたまふ。
 皇后、對へ諮まうしたまはく、「何をか富めりと謂ふ」とまうしたまふ。
 天皇の曰はく、「烟氣、國に滿てり。百姓、自づからに富めるか」とのたまふ。
 皇后、且また言したまはく、「宮垣壞れて、脩むること得ず。殿屋破れて、衣おほみそ被おほみふすま露つゆにしほる。何をか富めり
 と謂ふや」とまうしたまふ。
 天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、是れ百姓の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ
 寒ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧し
 といふことは」とのたまふ。

 宇治天皇が再び天の香具山に登られて望国(くにみ)されたのが、「夏四月」のことである。「春過ぎて夏来たるらし」の時季に完全に
 一致する。
 次に、詠み人が持統天皇、すなわち女帝である。この時、仁徳紀においては、 皇后髪長媛 が宇治天皇の登山をお見送りなさった可能性
 が高い。
 古墳時代の香具山(香春岳三ノ岳)は豊後の火山活動の影響で草木の生えていない真っ白な山肌の山であった。そこを登られる天皇の
 お姿が小さいながらも視認できたはずである。
 したがって、春過ぎて」の歌の詠み人は、俄然、髪長媛である蓋然性が強くなる。これも、本邦初の知見である。藤原定家が、一番に
 天智天皇、二番に持統天皇の御製歌を並べたことには、深い意義があったようである。

 【新解釈】
 春が過ぎて夏が来たらしい。香具山の周囲には濃い緑が繁っているが、それとは対照的に香具山だけは夏の強い日差しを受けて、真っ白
 に輝いている。
 それはあたかも造化の神がそこだけに「純白のつやのある白妙の衣を乾してある」かのように眼に鮮やかに映ることよ。
 その香具山を、天皇が民の暮らしが豊かになったかどうかを確かめる国見のためにお登りになっている、そのお姿が小さいながらも見え
 る。どうか、民の竈が賑わっていますように。