[「王仁(わに)」について、『古事記』では、和邇吉師(わにきし)]
倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった「宇治の宮」から新しい宮を造る事になり、新しく完成した比良宮の造営を
祝った歌が『百人一首』の序歌 王仁(わに)の歌である。百人一首の競技の初めに序歌として朗詠される歌。
ずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった。
天皇は人民と共に富み栄え、新宮殿の成った今を、聖帝の御世の春(勢いの盛んな時期)と讃えるかのように、咲き誇っているよ、
梅の花が。
【新解釈二:大鷦鷯天皇の政治を風刺し申し上げた歌】
大鷦鷯天皇の遠つ淡海にある難波高津の宮には咲き誇っていますか、梅の花が。いや、決して咲きますまい。冬、木の芽が盛り
上がるように、かの宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の仮廬のような宮殿で過ごされ、
その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった、あの聖帝の御世を継承できますか。大鷦鷯天皇の御世となった
今を春と讃えて咲き誇っていますか、梅の花は。人民と共に富み栄えることがなければ、梅の花は決して咲きますまい。
「難波津の歌」が、真に「王仁」の作であるなら、宇治天皇(=真実の仁徳天皇)の御世を祝ったのが本来の真意であり、宇治
天皇の非業の死後に「難波津の什物」を大鷦鷯天皇に献上せざるを得なくなった時に、難波津の歌は一転して「添へ歌」となり、
「政治を風刺し申し上げた歌」と化した。
紀貫之はその真意を知っていたようだが、日本書紀成立後の平安朝においては「大鷦鷯天皇=仁徳天皇」とされたから、早くに
「そへ歌」の真意が忘れ去られたようだ。
その結果、「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。」の方だけが伝えられ今日に至ったようである。
しかし、人々は宇治天皇の御世こそ忘れ去ったが、聖帝記事を歴史事実として敬慕し続け、王仁の「難波津の歌」自身も後世に
多大の影響を及ぼしたのである。<『宇治の京』より>