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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

  鶴岡八幡神社=神武天皇の畝傍橿原宮


 古事記の迦具土の前後には「香山の畝尾木本に坐す哭澤女神」が存在する。この「香山の畝尾」から「畝傍山」が派生したのなら、
 香春三の岳が本来の天香山であり、畝の尾に当たる一ノ岳が畝傍山と称されたことになる。
 私はこの位置関係から橿原宮を香春一ノ岳の東南麓の高野に比定したのである。そこには鶴岡八幡宮が鎮座し、柳井秀清氏によれば、
 さらにその以前に古い宮が鎮座していたとの由である。  <『 天香山争奪戦 』4~5ページより>

 以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 ここには、鎮西八郎為朝が鎌倉から勧請した鶴岡八幡宮が鎮座する。御祭神は、一座 応神天皇、二座 神功皇后と続いて、三座に
 玉依姫命が祭られている。当社の由緒書きにも、「玉依姫命は豊玉彦の女、葺不合命の皇后にて、御容姿の美称なり、神武天皇の
 母君の坐す。」と記されている。
 宮司の鶴我盛恒氏に玉依姫がなぜ祭神かをお尋ねしたところ、昔から祭られているとのご返事を頂いた。鶴我氏は同社において
 「樫葉の山」と題する冊子を発行されている。その名の由来をお聞きすると、「当社の祝詞は、『樫葉の山にまします云々』で
 始まります。昔から樫の木が多かったことによります。」との簡単明瞭なご回答もあった。
 私は、これこそ神武の橿原宮建設以来の伝承と思われてならなかった。

 鶴岡八幡宮の由緒書きの続きに、「翌年(仁平三年)正月十一日、社殿を初め五寺一院四十八堂舎ことごとく竣工せしにより同月
 十六日新宮に奉齋す。この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、その他は回廊、釣殿にいずれも
 衣冠束帯で仕候す。」とあり、また、「久寿元年三月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御宸筆の『鎮西鶴岡若八幡宮』
 の勅額を持参して下賜される。為朝公これを拝受し掲げしむる。」ともある。中世の朝廷も源氏も、神武の橿原宮の所在を知悉して
 いたからのような感すら与える。竣工時の宮の規模から考えても、鎮西八郎為朝は古代九州の由緒ある地に、源氏の氏神を祭った
 ようだ。
    (中略)
 橿原宮跡は、どうやら香春一ノ岳の東南「樫葉の山」に眠っているようである。

  鶴岡八幡神社(畝傍橿原宮)

 都は畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)
『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」。

『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」。

「畝傍山東南橿原地」の記述(畝傍山の東南の橿原の地を都と
定める。)による位置で、字高野にある 鶴岡八幡神社

神武天皇は、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。

香春岳 一ノ岳の東南、橿原の地に邸宅を造るは、
  「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の120年
  橿原宮で即位は、121年です。


 『日本書紀 神武紀 己未年の三月』の記述より


   この辛酉(かのととり、しんゆう)の年を西暦121年とした根拠は、中国史より

   ■「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った」

   ■「卑弥呼が、景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送った」

   ■「倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で
     長期間にわたる騒乱が起きた( 倭国大乱  の時期は2世紀後半)。そこで、卑弥呼という女子を王に
     共立することによって、ようやく混乱が収まった。」

    西暦57年から238年の間の辛酉(かのととり、しんゆう)の年(121年と181年)で、西暦121年が 

    神武天皇の即位の年 = 大和王朝(邪馬臺國)の成立の年としている。

 <所在地のGoogleマップ>

 <Googleマップのストリートビュー>