What's time is it now?

 facebook 
  関係サイト

 詫間電波工業高等専門学校
 電波通信学科2期生同期会

  サイト・ブログ
  リンク
レーダー・ナウ
紫外線情報

黄砂情報
花粉情報

PM2.5分布

*.以下、管理人専用の項目です。

  パスワード保護をしています。

  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

   ・「神武は筑豊に東征した!」福永晋三

  熊野神社=神社の所の地名:立岩


 ※ 熊野神社の所の地名:立岩(たていわ)= あまのいわたて


 以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 「熊野神社」(旧飯塚市大字立岩字浦の谷)の新旧の由緒にこうある。

 《旧縁起》(昭和十九年福岡県神社誌 部分)
 祭神 伊弉諾命、伊弉那美命
 當社記曰、神武天皇遷居、朝倉橘廣庭宮、朝倉宮御宇夏六月、異人熊野の崎に數十人漂着す。其人共日數三日を經ずして悉く頓死す。
 日ならずして疫病暴行土人多く病む。(此の下に文字あるか)神有て邑長の兒小蟲に憑て、吾は則伊弉那岐尊なり汝等宜しく吾宮を
 熊野崎に建て齋き奉れと。則邑長朝倉の宮に奏す。天皇聞食して宮符を太宰帥日向臣に給ひ、宮殿を熊野崎に造營して二尊を祀る。
 是熊野宮又熊崎宮と稱す。(中略)
 社説に伊弉那岐命、伊弉那美命、大巳貴命、少名彦命、手力雄命五柱を祀りしが、其後諾册二神を今の熊崎に移し熊野社と號し、
 大巳貴、少名彦命二柱神を別殿に齋き遷宮大明神と號す。手力雄命は今の熊野社の北三町餘の高處に不動岩ありて立岩と稱する處
 祀れり。

 《先代宮司時枝満定氏の由緒》(昭和五十年 部分)
 社記ニ曰ク神武天皇御東征の砌り雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺を辨ぜず時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す其状拾も
 屏風を立てたるが如し電光赫々の中岩上に神現れて曰く我は天之岩戸神名を手力男神と言ふ此の処に自ら住める惡鬼あり其状態に
 似て熊に非ず蜘蛛に似て左に非ず手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす彼今怪力を恃みて恣に
 天皇を惑はんとす最も憎む可きなり我巨岩を擲て其賊を誅す
 自今吾が和魂は此の岩上に留って筑紫の守護神たらん又荒魂は天皇の御前に立ちて玉體を守護すべきなりと爰に天皇駒主命をして
 厚く祭らせ給ふ
 三十六代ママ清和天皇の御宇大巳貴神少彦名神を別殿に斎き奉りて遷宮大明神と号す
 三十七代斎明天皇の御世諾册二神を今の熊崎に移し奉る熊崎詞後熊野宮と言ふ

 《新縁起》(平成十三年以降 現宮司特枝満晴氏による)
 神武天皇が九州から大和に攻め上がられた時に、立岩村の地で激しい嵐にあい進めなくなりました。そこで祖先の神々に祈願なさると、
 天から巨岩が雷光とともに落ちて大地に突き立って雨が止み、戦いに勝って平穏になりましたという伝説があり、それで「立岩」の
 地名と神霊の宿る岩を熱くお祭りしたのが、立岩神社の由来であります。また、立岩丘陵の周辺は一面沼地でした。
 その後、斎明天皇が朝倉宮を造営なさった年(六六一年)の夏六月、異人(外国人)達が熊野の崎(現在熊野神社のあるところ)
 漂着し、三日後彼ら全員が急死しました。その数日後疫病が流行して村人達の多くが死にました。すると村長に「我は伊耶那岐命で
 ある。あなた達はわたしの宮をこの熊野崎に建てて謹んでお参りしなさい。」とお告げがありました。
 村長は朝倉の宮に報告し、許可を太宰府の長官から頂き、神殿を造営して二神をお祭りしました。すると瞬く間に疫病が治まったと
 いう今の熊野神社の縁起です。

 これらの熊野神社の社伝が神武紀の次の一文を解明する手掛かりとなった。
  遂に狭野を越ゆ。熊野の神邑に到る。且ち天磐盾に登る。
 従来の通説を根本から覆し、我が国古代史のコペルニクス的転回とも呼ぶべき史実が蘇った瞬間であった。日本書紀は「神武が筑豊に
 東征した」数々の史実を、この一文に閉じ込め、隠蔽したのである。
 「遂に狭野を超ゆ。」は 求菩堤山縁起 によって解明できた。この後に射手引神社社伝と筑豊の各神社社伝に残された神武東征のコース
 が綿々と続く。そして、この熊野神社社伝にあるとおり、神武軍は片島から古遠賀湾を渡り「熊野の崎」に上陸を敢行し、立岩遺跡が
 その実在を証明する「熊野の神邑に到る。」のであった。
 勝負坂(記にいう熊野荒坂津か)で敵(兄磯城か)に勝った神武は、「今の熊野社の北三町餘の高處に不動岩ありて立岩と稱する處」
 「且ち天磐盾に登る」。そうして「天磐盾(=立岩神社)」の頂上で、「天皇が天祖(伊弉諾命、伊弉那美命)に(東征成就を)
 祈願し給ふた」ことが推測される。「駒主命」に祭らせたとあるから、倭奴国建国の第一の功臣と目される「立岩の王」であった
 手力雄命の末裔に勝利したのち、駒主命が新「立岩の王」に即いたのであろう。なお、先の射手引神社にも「手力雄命」が祭られて
 いるから、古代「鎌(嘉麻)」の地(日本書紀では、安閑天皇二年、西暦五三五年に鎌・穂波の屯倉を置いたという記録が最古で
 ある。)は広く手力雄命とその系譜が領有していたことになる。
 立岩神社にも手力雄命が祭られているのは、「弟磯城」が神武に帰順したからであろうか。弟磯城は後の磯城県主とも推測され、ここの
 駒主命とも考えられるから、鹿毛馬神籠石城主とも目されるのである。

 昭和十三年から十五年にかけ文部省で行なった神武天皇聖蹟調査においても、的確な地点地域を考究すべき十分な徴証がないものとして
 決定を見合わせたとするうちの、「天磐盾熊野荒坂津。」を初めて比定し得たのである。

 <所在地のGoogleマップ>

 <Googleマップのストリートビュー>

   

  立岩神社=天磐盾(あまのいわたて)


 ※ 熊野神社の所の地名:立岩(たていわ)= あまのいわたて
   立岩遺跡(たていわいせき):福岡県飯塚市立岩の遠賀川にのぞむ丘陵上にある弥生時代の遺跡群の総称。
   この立岩遺跡は、神武天皇が東征(第二次東征)で滅ぼした遺跡。

 ※ 磯城彦との立岩丘陵の激戦は、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の 118年 十一月 です。

  鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)・射手引神社社伝による神武天皇・東征の地( 東征コース  O:立岩)。

 『日本書紀 神武紀 戊午年』の記述


  「立岩神社の証言」の写真、壊されている「天の磐舟(天神降臨の天物部二十五部族のモニュメント)」は、各地にある。

 ・立岩神社/貴船神社:壊されている「天の磐船」

  舟石権現 :壊されていない「天の磐船」


 ※ 立岩石包丁の流通地域図は、  こちら 

   立岩遺跡の人骨 の写真は、「田力男命の子孫にして磯城彦の先祖?」、  倭奴国滅亡 

 <所在地のGoogelマップ>

 <Googleマップのストリートビュー> ・・・ 立岩神社の北側にある「立岩遺跡」を表示しています。