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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。

   ・「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三

  草香江=草香津(くさかのつ)


  神武天皇の第一次東征時、長髄彦(ながすねひこ)のと戦いで敗れて引きあげた地。

 ※ 『日本書紀 神武紀 戊午年の夏四月』の記述より

 

 以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 従来説のように、九州から出て大阪の難波に上陸して敗戦したとする
 と、その後の神武には帰還する場所が無く、軍備も再編成する機会が
 ない。それなのに、兵を補充できなかったはずの神武軍は、後段に
 おいて敵の大軍と堂々と会戦さえしているのである。矛盾というより
 他はない。いわゆる奈良県「大和の国」に神武は断じて来ていない。
 したがって、「乃ち軍を引きて還る。虜も亦敢て逼まらず。却りて
 草香之津に至り、盾を植ゑて雄誥爲す。因りて改め其の津を號けて

 <草香江=草香之津>


 盾津と曰ふ。」は、リアルな記述であり、この「草香之津」は、福岡市住吉神社に伝わる古図に鎌倉期まで「草香江」のあった ことが
 示してあり、そこを指していよう。神武は正しく「草香之津」に「軍を引きて還った」のである。

  長髄彦と交戦し敗れる。兄の五瀬命が矢にあたり負傷し、博多湾の草香津へ帰還は、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の115年
   三月
です。

 <所在地のGoogleマップ>

   

  住吉神社



 <所在地のGoogleマップ>

 <Googleマップのストリートビュー>