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[「倭(やまと)の青垣の東の山」すなわち「御諸(みもろ)の山」]

 ■香春岳 = 三輪山が、大物主(御諸の山の上にます神)の地  <以下、『天香山争奪戦』より>

  倭奴国領土拡張戦争
  天神降臨の成功によって、古遠賀湾西岸部を制圧した天神族は、次に古遠賀湾東岸部(豊前の国)の制圧に乗り出したようだ。
  その記録は『記紀』に明らかにされていないが、
  天孫降臨の前段階の「国譲り」において、天神族の「建御雷(たけみかづち)の男の神」が出雲の主神の大国主とその一族とを
  武力で倒した記事が詳しく残されている。
  その大国主に共同統治者のいたことが記されている。すると、共同統治者も征伐されたと見るのが順当であろう。

  ここに大國主の愁へて告りたまはく、
  「吾獨して、如何かもよくこの國をえ作らむ。いづれの神とともに、吾はよくこの國を相作らむ」とのりたまひき。
  この時に海を光らして依り來る神あり。その神の言りたまはく、
  「我が前をよく治めば、吾よくともどもに相作り成さむ。もし然あらずは、国成り難けむ」とのりたまひき。
  ここに大國主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、
  「吾をば倭の青垣の東の山の上に齋きまつれ」とのりたまひき。こは御諸の山の上にます神なり。

  「倭(やまと)の青垣の東の山」すなわち「御諸(みもろ)の山」の上にます神である。 この神こそ大国主の共同統治者である。
  それは「倭の三輪の神」すなわち大物主である。この神にまつわる説話が、『神武天皇記』に出て来る。

  (神倭伊波礼毘古の命)然れども更に、大后とせむ美人を求ぎたまふ時に、大久米の命まをさく、
  「ここに媛女あり。こを神の御子なりといふ。それ神の御子といふ所以は、三島の湟咋が女、名は勢夜陀多良比賣、
  それ容姿麗かりければ、美和の大物主の神、見感でて、その美人の大便まる時に、丹塗矢になりて、その大便まる溝より、
  流れ下りて、その美人の富登を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすぎき。すなはちその矢を持ち來て、
  床の邊に置きしかば、忽に麗しき壯夫に成りぬ。すなはちその美人に娶ひて生める子、名は富登多多良伊須須岐比賣の命、
  またの名は比賣多多良伊須氣余理比賣といふ。かれここを以ちて神の御子とはいふ」とまをしき。

  神武(迩迩藝の命の曾孫か)が倭(やまと)を侵略して、第二妃を求めたとき、美和(三輪)の大物主の神の子を推薦される
  場面である。
  大物主が丹塗りの矢に化けて美人のホトを突くというエロチックな神話として描かれている。が、説話の重要点は、神武が
  「最も古い倭(やまと)」に侵入したことであり、その「倭(やまと)」の地で大物主の娘を第二妃とした点である。

  もう一箇所、『崇神天皇記』にも大物主の神の子が現れる。

  この天皇の御世に役病多に起り、人民盡きなむとしき。ここに天皇愁歎へたまひて、神牀にましましける夜に、大物主の大神
  御夢に顕はれてのりたまひしく、
  「こは我が御心なり。かれ意富多多泥古をもちて、我が御前に祭らしめたまはば、神の氣起らず、國も安平ならむ」とのりたまひき。
  ここを以ちて、驛使を四方に班ちて、意富多多泥古といふ人を求むる時に、河内の美努の村にその人を見得て、貢りき。
  ここに天皇問ひたまはく、「汝は誰が子ぞ」と問ひたまひき。
  答へて白さく「僕は大物主の大神、陶津耳の命が女、活玉依毘賣に娶ひて生みませる子、名は櫛御方の命の子、飯肩巣見の命の子、
  建甕槌の命の子、僕意富多多泥古」とまをしき。

  ここの意富多多泥(古おほたたねこ)の祖先が大物主であり、その子孫に天孫降臨前夜、国譲りで活躍した「建御雷命」 と同音の
  人物「建甕槌(たけみかづち)の命」がいる。しかも意富多多泥古の父である。
  この説話の重要点は、大物主の祭祀が絶えていたことである。
  それはやはり侵略の結果ではなかったか。敗れた神が祟ったから祭祀を復活させたのであろう。
  大物主は武力で倒されたらしい。大国主と同様である。

  以上の一見異なる時代に配された記事が、同時代の同一の記録と仮定すると、共通する「倭の三輪山」の本貫地が見えてくる。

  意富多多泥古は「河内の美努(みの)の村」に住んでいたが、この河内があるいは万葉集に詠われた「河内王を豊前国鏡山に葬る時、
  手持女王の作る歌三首」の「河内」であるなら、豊国の鏡山付近の「河内」となる。
  そこは、現在の福岡県田川郡香春町であるが、「河内王陵」が参考地として比定されている。
  ところが、地元の人々が代々守ってこられた「 おほきんさん(大王様) 」と呼ばれる円墳が少し離れたところにあり、
  この墓を先祖の墓と信じられていた方の姓が何と「箕野(みの)」さんである。筆者には偶然とは思われない。

  「豊前国風土記」逸文に云う鹿春郷に、有名な峰がある。
  香春岳だ。風土記にも、峯・第二峯・第三峯とあり、古代から三峰の山である。実に単純明快に「三輪山」と思われる。
  倭国(倭奴国)の中心地をそのまま「倭(やまと)」と考えるなら、「三輪の神」はまさしく「(やまと)の青垣の東の山」の
  上にますことになり、「香春岳」とピッタリ位置が合う。

  大国主の時代に治国の協力をした大物主の国はやはり、ここであろう。