[三角縁神獣鏡は、卑弥呼の銅鏡の主役になれない]
※ 以下、福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」より抜粋。
■三国時代の東鯷国ⅱ 三角縁神獣鏡の誕生
藤田氏は、右の記事から三角縁神獣鏡の出現までの過程を、「卑弥呼の鏡と三角縁神獣鏡」(新・古代学第4集)において、
次のように分析した。(筆者の要約による。)
(第一段階)
中国で製作された鏡を輸入した段階。舶載鏡の段階。前漢鏡・後漢鏡、魏鏡・呉鏡の別がある。
(第二段階)
舶載鏡に魅せられた倭人たちが先達の技術を持った渡来人と合作して製作した段階。神仙思想や宗教観を表現した神獣鏡、
画像鏡は呉から亡命し渡来した呉の工匠と一緒に鏡作神社などの拠点地で倭人と合作した鏡である。
倭人の好みで、本国(中国)にはない傘松文様などの意匠を入れたりした。この段階を従来説は認めず、舶載鏡として
魏鏡の中に入れ「卑弥呼の鏡」として扱ったため、百枚をはるかに超える枚数となり、説明不能の謎となってしまった。
(第三段階)
呉の工人の二世・三世による鋳造の段階。水準が低下した。従来説は、この段階の鏡を仿製鏡といい、国内産とした。
以上の三段階を、藤田氏は具体的には、石切神社の穂積殿の宝物である鏡群に適用され、見事な証明を得られたのである。
藤田氏は、第二段階のいわゆる三角縁神獣鏡を「倭呉合作鏡」と表現された。筆者は、自己の仮説の流れから、これを
「鯷呉合作鏡」と置換せざるを得なかった。
■三国時代の東鯷国ⅲ 三角縁神獣鏡の注文主
石切神社。大阪府東大阪市東石切町1―1にある式内社の正式名が石切剣箭(つるぎや)神社であり、その祭神こそ、物部氏の祖の
饒速日(ニギハヤヒ)命 と 可美真手(ウマシマデ)命 なのである。
ニギハヤヒについては、前々号で述べたとおり、倭奴国の建国の祖であり、天神降臨の偉業を成就した神である。しかも、この神は
古遠賀湾沿岸に都を定めたことも述べた。前漢代、 紀元前一四年 のことである。
後漢代の桓・霊の間、倭奴国に大乱が起こる。その原因を筆者は、 ニニギの命 の子孫神武の東征、倭奴本国すなわち古遠賀湾沿岸の
侵略にあったとした。この時、天神本流の一族が、東に逃れた。それ以前にもいわゆる物部氏の東遷があったと思われる。
『先代旧事本紀』「天神本紀」や神武記の近畿侵入譚の部分は、その記録であろう。銅鐸圏の一角に、ニギハヤヒの子孫物部氏が
共存していたと思われる。
谷川健一氏たちも「遠賀川流域から東遷あるいは東侵してきた筑紫物部氏の末裔」と言われる。
筆者は、この東遷した物部氏の末裔が代々、呉の工人に発注して作らせた鏡こそ、藤田氏の言う第二段階の「倭呉合作鏡」であり、
筆者の言う「鯷呉合作鏡」であり、これが、三角縁神獣鏡の実体と思われるのである。
(中略)
三角縁神獣鏡が中国から一枚も出土しないことは有名な事実だ。鋳型の破片も見つからない。
また、奥野正男氏の研究によれば、中国鏡には笠松文がないとのことだから、松笠紋のある三角縁神獣鏡は日本国内の製作鏡という
ことにならざるを得ない。
(後略)
■三国時代の東鯷国ⅳ 親魏倭王と親呉倭王
以上のような緊張した国際情勢下に、倭国の卑弥呼は魏の景初三年(二三九)に、帯方郡に使を送り、翌正始元年(二四〇)、
魏使を伴い、数々の絹織物・五尺刀二口・銅鏡百枚とを携え、使は洛陽の都から帯方郡経由で帰着した。
魏志倭人伝の里程 記事はこのときのものである。
卑弥呼が下賜された「銅鏡百枚」はおそらく後漢式鏡と思われる。
出土分布から判断しても、福岡県内に女王国はあったと推測される。
魏の武帝とされる曹操は、後漢朝の丞相であった。子の曹丕が後漢の献帝を廃し、洛陽に都し、国号を魏といった。
黄初元年(紀元二二〇年)のことである。したがって、卑弥呼が下賜された銅鏡百枚は、後漢式鏡であっておかしくはない。
卑弥呼が魏の皇帝から下賜されたとされる百枚の銅鏡
* 方格規矩鏡・内行花文鏡・盤龍鏡など後漢の官営工房系の、確実な舶載鏡である。
* 三角縁神獣鏡は卑弥呼の銅鏡の主役にはなれない。
* 画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡は、中国南部、主として呉の国の地域で製作された「神獣鏡」の系統に属する。
したがって、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡の主たる分布領域である近畿は、呉の国との結びつきが強い地域と見るのが
最も自然である。
* それに対し、方格規矩鏡・内行花文鏡・盤龍鏡など後漢の官営工房系の鏡が、多く分布する北部九州は、中国北部、
魏の国との結びつきが強い地域といえる。
もうひとつの鏡、方角T字鏡(簡化規矩鏡)の北部九州を中心とした分布状況が、これに加わる。
* 中国では、後漢・三国・晋代にかけて、こうした銅鏡の南北の地域差が明瞭になってくることが指摘されている。
銅鏡において、中国における「南」と「北」とが、日本列島の「東」と「西」とに対応しているのである。
右の分析と筆者の仮説を合成すると、三世紀の日本列島の西に後漢式鏡の分布する、
銅矛圏と重なる倭国があり、そこが親魏倭王の領土であるなら、東に三角縁神獣鏡の分布する、銅鐸圏と重なる東鯷国が
あり、そこが親呉倭王の領土となる。
季刊『邪馬台国』二〇〇一年夏号「銅鏡百枚」について高島忠平(佐賀女子短期大学教授)
これを裏付けるように、東鯷国の領域において、呉の赤烏元年(二三八)銘神獣鏡が山梨県西八代郡三珠町鳥居原・狐塚古墳から、
赤烏七年(二四四)銘神獣鏡が兵庫県宝塚市安倉古墳から出土している。
■三国時代の東鯷国ⅴ 景初三年鏡
卑弥呼が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚とは別のものと思われるが、
・景初三年銘画文帯神獣鏡が大阪府和泉市黄金塚古墳から
・景初三年銘三角縁神獣鏡が島根県大原郡加茂町神原神社古墳から
・正始元年銘三角縁神獣鏡が群馬県高崎市芝崎蟹沢古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳から
それぞれ出土している。これもまた、東鯷国の領域からの出土となる。
だが、この景初と正始は、魏の年号である。だからこそ、三角縁神獣鏡が長らく魏鏡とされてきたのであり、いわゆる邪馬台国
近畿説の根拠の一となっていたようである。
ところが、この景初三年銘三角縁神獣鏡こそが、逆に東鯷人が魏と往来した記念に、呉の工人に作らせた「鯷呉合作鏡」である
可能性が強まった。
(中略)
国分神社(大阪府)蔵の「徐州・洛陽鏡」という三角縁神獣鏡が存在する。その銘文中に「銅は徐州に出で師は洛陽に出づ」とある。
これも右が事実なら、「鯷呉合作鏡」として何の不思議もないし、東鯷国の領域に残ることもおかしくない。
三角縁神獣鏡は魏とも交流のあった東鯷国において作製されたのである。
魏と国交断絶に陥った東鯷国は、景初三年銘三角縁神獣鏡もどういうわけか作製し、残した。
翌年の改元を知らなかったからこそ、景初四年銘三角縁神獣鏡(福知山市の広峯一五号墳出土)も残してしまったと推測されるし、
魏の洛陽では決して製作されることのない鏡であることが明白だ。
洛陽にあっては景初四年の無いことは誰にでも分かることだからだ。三角縁神獣鏡は断じて魏鏡ではない。東鯷国の産物である。
思えば、玄海灘は、魏 ― 倭国ラインと呉 ― 東鯷国ラインの十字路であったようだ。