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  ※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。


  石造りの地下水路=斉明天皇の狂心の渠(たぶれこころのみぞ)


  石組みの地下水路(吹き出し)=狂心の渠

狂心の渠(たぶれこころのみぞ)=「吹き出し」と呼ばれている
   石組みの地下水路 

 「香春町域遺跡分布図」上に香春三ノ岳(香山)の西からの
  地下水路①と大坂山からの地下水路② 推定経路 を示した
  ものです。


 『日本書紀 斉明天皇 2年(656年)』の「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)と石の垣」の記述

 

 *.何故、斉明天皇は、「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」を造る工事をする必要があったのか?

    豊後(大分の鶴見岳・伽藍岳 由布岳等)の火山活動の影響(亜硫酸ガスや酸性雨等)があり、飲み水や米作りの水を

    必要としたので、天香山を取水地にして、石灰岩のアルカリ性で酸性の水を中和させて供給する地下水路を造った。

  高見大地氏の「 火山と宮処との地理的相互関係 」の説明です。

   日本書紀の「京極天皇 2年(643年)」と「斉明天皇 元年(655年)」の  火山活動の影響 」に関する記述です。

  桃坂豊氏の「 宮原盆地 謎の地下水路ついて 」の説明と地下水路推定図です。

  福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 それは香山(かぐやま)の東にあった!」の資料
  「 狂心の渠と吉野宮 」の11、14~15ページに下記の記述があります。

    ここに、新たな謎が立ちはだかる。
     「時の人の謗りて曰はく、『狂心(たぶれごころ)の渠。』」
    香春の〝吹き出し〟は今日なお香春の地に豊かな水を供給し、人々の農作に恵みを与えているではないか。
    築造当時も人民に多大の恵みをもたらしたことは想像に難くない。人々はむしろ喜んだはずだ。
    そう考えると、日本書紀のイデオロギーは、齊明天皇の業績を貶めるところにもあるのではないだろうか。
    これまでは遺構を探すのに精一杯であったが、いざ見つかった途端に狂心の渠」という呼び名がはなはだ不似合い
    であることに気づかされた。

  「吹き出し」は「狂心の渠」ではなかった 
    現在もなお、香春の地に恵みをもたらしている「吹き出し=齊明の渠」は、当の齊明紀においてなぜ「狂心の渠」という
    不名誉を負わされたのか。
           (中略)
   『日本書紀』の原型は、おそらく、壬申の乱に勝利した天武天皇の革命王朝にあっただろう。
    日本書紀は、天武・持統紀で結ばれている。
    拙論「倭国易姓革命論」で論じたように、天皇家は決して「万世一系」ではなかった。むしろ、「革命」の連続である。
    中国の正史に見られるような「前王朝が天命を失い、我が王朝が新たな天命を享けて成った」とする考え方が、日本書紀にも
    あるなら、「天武朝」は「齊明・天智朝」に「失政があって天命を失っていた」とするのではないか。
    それこそが「狂心の渠」の謂われと筆者には推量される。
    確かに、齊明天皇は火山災害に見舞われ、国事は多難を極めた。内は政情不安、外は唐・新羅相手の外交問題、内憂外患に
    満ちた時代であった。
    その政事的混乱の果てに、壬申の乱は勃発し、天武の勝利に終わる。
    哀しいことに、齊明天皇の国家的事業は非難の対象に貶められたと推量されるのである。
     齊明天皇の当代においては、おそらく「狂心の渠」ではなかったはずだ。
     香春の「吹き出し」がそれを証明するかのごとく、今日も豊かな水を吹き出している。

  呉中平雪穴 = 造垣(かきねづくり)


  斉明天皇の狂心の渠(たぶれごころのみぞ)の石造りの地下水路と石の垣の呉中平雪穴がある。

  大阪山(飯岳山)中腹の「呉中平雪穴」の位置の記述として、飛鳥の地(赤村)の宮(岡本宮)から見れば北の方角になるが、

  香春にあった宮(宇治宮)から見れば、日本書紀の記述通り「宮の東の山」に当たる。

 『日本書紀 斉明天皇二年』の下記の記述の
 「・・・宮の東の山に石を塁ねて垣とす。」の宮が、「菟道の宮」(宇治天皇の宇治宮があった辺り)と考えられる『日本書紀』の
 記述は、

 天智天皇四年の九月に以下の記述がある。
 九月庚午の朔壬辰に、唐國、朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等を遣す。等といふは、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰を
 謂ふ。凡て二百五十四人。七月廿八日に對馬に至る、九月廿日に筑紫に至る。廿二日に表函を進る。
 冬十月の己亥の朔己酉に、大きに菟道に閲す。

 この時の宮は、菟道であり、大坂山は宮の東の山にあたる。

 <以下、『 狂心の渠と吉野宮 』のPage11より抜粋>

  呉中平雪穴が、「宮の北の山に石を累ねて垣とす」る遺構であるなら、齊明天皇は、「香山の東(宮原盆地)」に「狂心の渠」
  謗られた「石組みの地下水路(通称〝吹き出し〟)」を造られ、同年に「後飛鳥岡本宮(赤村岡本)」の「北の山(大坂山)」に
  石を累ねて垣とす」る、現在の呉中平雪穴を造られたことになり、「後飛鳥岡本宮」の所在も絡んで、いよいよ齊明紀の記述と
  香春町内の両つの石組み遺構とが完璧な一致を見る気がしてならない。

   いわゆる「狂心の渠」は、齊明天皇二年(西暦六五六年)、齊明天皇が水工に命じ、人夫延べ三万人余りを使って、香山(香春岳
  三ノ岳)の東に造り給うた。
  同年、後飛鳥岡本宮(赤村岡本の光明八幡社付近)の北の山(大坂山)に、人夫延べ七万人余りを使って、石を累ねて垣(呉中平
  雪穴)
を造り給うた。これが歴史事実のようである。

 <呉中平雪穴 ・・・ 石を塁ねた垣>  

  


 <所在地のGoogleマップ>

 <Googleマップのストリートビュー>