※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
古物神社=日本武尊(倭建命)の白鳥陵
下記の『日本書紀 景行紀』の記述にある日本武尊の三ヶ所目の白鳥陵。
時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。
於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。
故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。
是歲也、天皇踐祚卌三年焉。
時に日本武尊、白鳥に化りたまひて、陵より出で、倭国を指して、飛びたまふ。群臣等、因りて、其の棺櫬を
開きて視たてまつれば、 明衣のみ空しく留りて、屍骨は無し。是に、使者を遺して白鳥を追ひ尋めぬ。
則ち倭の 琴弾原 に停れり。仍りて其の処に陵を造る。 白鳥、更飛びて河内に至りて、旧市邑に留る。
亦其の処に陵を作る。故、時人、是の三の陵を号けて、白鳥陵と曰ふ。然して 遂に高く翔びて天に上りぬ。
徒に衣冠を葬めまつる。因りて功名を録へむとして、即ち武部を定む。是歳、天皇踐祚四十三年なり。
『日本書紀 仁徳紀』
六十年の冬十月に、白鳥陵守等を差して、役丁に充てつ。・・・
(注)白鳥陵は、景行四十年是歳条に見え、日本武尊の霊魂が白鳥となり、まず、伊勢の能褒野、次に倭の琴弾原、
さらに河内の旧市(ふるいち)に造った陵から次次ととびたったといわれ、この三つの陵を白鳥陵といったという。
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